史載(Historical Record)
杜恕(とじょ)、字は務伯、その父は杜畿である。若い頃、杜恕は馮翊の李豐と父祖の代からの交わりがあり、幼少より仲が良かった。しかし、成人するに及んで、李豐は名行を磨いて世の名誉を求めたのに対し、杜恕は奔放で率直な意志を貫き、李豐の道とは異なった。李豐はそれによって一時に名を馳せ、京師の士の多くが彼のために遊説したが、当権者の中には李豐の名は実に過ぎると考える者もいた。これに比べ、杜恕は才を抱きながら時を得ない者とみなされ、李豐もそれゆえ彼に対して快く思わなかった。杜恕は自然に任せ、ことさら時流に迎合しなかった。李豐が顕職をもって朝廷に出仕した際も、杜恕はなお家に居て泰然としていた。
明帝は杜恕が大臣の子であることを思い、彼を散騎侍郎に抜擢し拝命し、数か月後に黄門侍郎に転補した c:5731。杜恕の人となりは誠を推して質朴であり、飾り立てることをせず、若い頃には顕著な名声がなかった。しかし、朝廷に出仕した後、彼は決して人脈を結んで引き立てを求めることをせず、ひたすら公に向かった。政事に得失があるたびに、杜恕はしばしば綱維を引いて正論を述べることができたため、侍中の辛毗(しんぴ)らに深く重んじられた。
当時、公卿以下が朝政の得失について大いに議論した。杜恕はこう提起した。「古の刺史は、六条を奉宣し、清静をもって名となし、威風をもって称せられた。今や、彼らに兵を領させず、民事に専念させてもよいのではないか。」 c:12340 間もなくして、鎮北将軍の呂昭がさらに冀州(きしゅう)刺史を兼領したため、杜恕はこれについて上疏して所見を陳べ、自らの見解を表明した。
甘露二年(257年)、河東の人である楽詳は、当時九十余歳で、朝廷に上書し、杜畿の遺績を追頌した。朝廷はその言に感じ入り、詔を下して杜恕の子の杜預(とよ)を豊楽亭侯に封じ、食邑百戸を与えた c:2488。この措置は杜畿の功績への肯定であるだけでなく、魏晋の交における杜氏一族の地位と影響を間接的に体現するものでもある。
演中(In the Novel)
(演義の資料なし)
主要な関係
* 曹魏(serves):杜恕は曹魏政権において散騎黄門侍郎などの職を務め、明帝に重んじられ、朝政について進言した c:5731。
* 廉昭(enemy_of):史料の記載において、杜恕はかつて鎮北将軍の呂昭が冀州刺史を兼領する件について上疏しており、彼と呂昭が政見において相違を抱いていたことを示している。呂昭は資料中の廉昭である c:12340。
* 杜預(parent_of):杜恕は杜預の父である。杜預は甘露二年、祖父の杜畿の功績によって豊楽亭侯に封じられ、食邑百戸を与えられた c:2488。
象徴的な場面
* 率直に朝政を論じ、人脈を結ばず:杜恕は散騎黄門侍郎を務めていた間、誠を推して質朴であり、飾り立てることをせず、決して人脈を結んで引き立てを求めることをしなかった。朝政に得失があるたびに、彼は常に綱維を引いて正論を述べることができたため、侍中の辛毗らに重んじられた c:5731。これは彼の「議論は剛直」「人脈を結ばず」という性格の特徴を体現している。
* 刺史の職能を諫議する:ある公卿の大議において、杜恕は「古の刺史は、六条を奉宣し、清静をもって名となし、威風をもって称せられた。今や、彼らに兵を領させず、民事に専念させてもよいのではないか」という進言を提起した c:12340。この場面は、国家の統治に対する彼の深い思索と「倜儻として意のままにする」独立した見解を示すとともに、その「思いて患いを防がず」という率直さを間接的に反映している。
* 父子相承け、栄光続く:甘露二年、杜畿の遺績によって、朝廷は詔を下して杜恕の子の杜預を豊楽亭侯に封じた c:2488。この出来事は、杜氏一族の功勲への肯定であるだけでなく、杜恕一族の栄誉がその子によって続いていくことを象徴している。杜恕本人は史料において明確な封爵の記録がないものの、その子が祖父の功によって封じられたことは、杜氏一門の地位を側面から反映している。
人間関係
2 件の関係
親族1
師弟1
台詞
- 史 ch.16 §26→ 曹叡(そうえい)
“古之刺史,奉宣六条,以清静为名,威风著称,今可勿令领兵,以专民事。”
登場回1 回 ▸
- 史ch.16
関係の年表1 条 ▸
史 ch.16
- 杜預(とよ)§51
parent_of
子;甘露二年朝廷诏封丰乐亭侯
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は杜恕(とじょ)、字は務伯(むはく)という。若いころを思い返せば、馮翊(ひょうよく)の李豐とともに父の任を受け、幼なじみとなった。成人すると、彼は名声と品行を磨き、世間の評判を求めた。私はというと、思うまま率直に振る舞い、時勢に合わせて取