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合肥の戦い(がっぴのたたかい)

215年(建安二十年) · 逍遙津(しょうようしん)

『三国(さんごく)演義』第五十三回・第六十八回の記述によれば、建安二十年(215年)、孫権(そんけん)は曹操(そうそう)が漢中(かんちゅう)西征に出た隙を衝き、自ら十万の大軍を率いて合肥(がっぴ/ごうひ)に迫った。守将の張遼(ちょうりょう)は楽進(がくしん)・李典(りてん)とともに曹操が残した密令に従い、守りを攻めに転じた。張遼は八百の決死隊を率いて夜間に呉軍の大営を急襲し、その鋭気を挫いた。孫権が逍遙津(しょうようしん)まで退却する際、呉軍主力がすでに北岸を渡りきっていたところ、孫権は千余人の親兵のみで殿軍を務めていた。そこへ張遼・徐晃(じょこう)ら魏将が突撃し、孫権を包囲してしまった。甘寧(かんねい)・凌統(りょうとう)・呂蒙(りょもう)・谷利(こくり)ら諸将が命がけで救出にあたり、孫権は馬で逍遙津の壊れた橋を跳び越えてようやく難を逃れた。この戦いは演義において「張遼の逍遙津での威名(ちょうりょうのしょうようしんでのいめい)」の代表的な逸話として描かれており、正史『三国志(さんごくし)・張遼伝』および『吴主伝』と対照して読むことができる。


合肥の戦い(がっぴのたたかい)

シーン画像

逍遥津之战(215年(建安二十年)):涉及 张辽、乐进、李典、孙权等;2 回/卷见于:演 ch.53、68。

登場人物: 張遼(ちょうりょう)、楽進(がくしん)、李典(りてん)、孫権(そん けん)、薛悌(せつてい)、呂蒙(りょもう)


地理

人物

深掘り解説

AI 分析

戦略的背景

建安二十年の合肥(がっぴ/ごうひ)は、曹魏(そうぎ)の淮南防線の 最前線の要衝であり、その後背は潁水・淮水・汝南・許都(きょと)一 線を扼していた。孫呉(そんご)が合肥を奪取できれば進攻線を淮河南 岸まで押し上げ、豫州(よしゅう)と徐州(じょしゅう)を脅かすこと ができる。曹操(そうそう)が合肥を失えば江淮の防御はまったく成り 立たなくなる。孫権(そん けん)がこの年に攻勢に出たのは、曹操が 主力を率いて漢中(かんちゅう)へ張魯(ちょうろ)討伐に遠征したば かりで、淮南の守兵が張遼(ちょうりょう)・楽進(がくしん)・李典 (りてん)の約七千人しかいなかったからである。孫呉の側 から見れば、これは「虎が山を離れた」後の稀な戦略的窓の機会であった。

双方の配備

孫権方は、演義では「十万の兵馬」と記され、正史でも歩騎十万とある。 前鋒には甘寧(かんねい)・凌統(りょうとう)・呂蒙(りょもう)・ 陳武(ちんぶ)・徐盛(じょせい)・潘璋(はんしょう)ら数十名の将 を擁し、孫呉が動員しうる最強の陣容であった。曹魏方は、張遼・楽進・ 李典の三人がもともと不仲であったが、曹操は出征前に密書一通を残し、 「孫権が来たら、張・李は出戦し、楽は城を守れ」と定めていた。この密書は三人それぞれの性格を巧みに活用したものであっ た。張遼は鋭く突進し、李典は大局を見て行動し、楽進は堅実に守る。 分業を明確にすることで、三将が互いに牽制し合うという弱点を補完す る長所へと転換した。この「事前の権限付与と性格の適合」という事前 計画の設計は、曹操の軍事的管理能力の典型的な現れである。

重要な決断点

戦役の第一段階で、張遼は精選した八百の決死隊を率いて孫呉軍の大営 に積極的に突撃し、自ら孫権の軍旗のもとまで切り込み、呉将の宋謙 (そうけん)を戦死させ、呉軍の士気を奪った。この一撃の意義は殲滅 した敵の数にあるのではなく、心理的な震撼にあった——「曹軍が守勢に ある」という戦略的な叙事を、瞬時に「曹軍が積極的に打って出る」と いう叙事へと書き換えたのである。第二段階で、呉軍は合肥 を十日以上包囲しても攻略できず、士気と補給が双方で低下し、孙権は 撤退を決めた。この時、撤退の秩序が鍵となった。孫権は主力を先に逍 遙津(しょうようしん)を渡らせ、自らは千余りの親兵を率いて殿後を つとめることを選んだ——これは典型的な指揮官としての姿勢の取り違え であった。最高指揮官が撤退中に自ら露出することは、戦時の突撃より もはるかに危険である。第三段階で、張遼はこの空隙を精確 に捉え、徐晃(じょこう)を率いて挟撃し、孫権を包囲の中に追い込ん だ。甘寧・凌統・谷利(こくり)らが命懸けの一対一の死闘を展開して 孫権を津橋まで護送し、孫権は馬を走らせて断橋を跳び越え、辛くも 一命を取りとめた。

結果と反響

合肥の戦い(がっぴのたたかい)は孫呉の淮南方向への最大規模の攻勢 であり、最も惨烈な敗北でもあった。十万が七千を囲む態勢にあって、 孫権は城を落とせなかっただけでなく、逆に命を失いかけ、中堅の将 数人を戦死させた。戦役の次元からは、曹魏は極めて小さな代価で淮南 を守り、張遼はここから「曹魏五子良将」の中で最も攻撃能力に優れた 一人と見なされるようになった。逍遙津の名は孫呉に一世代にわたって 影を落とし続け、後世には「張遼止啼」の説が生まれた——江南の子供が 夜に泣くと張遼の名でなだめたという。戦略の次元からは、 孫呉はその後約十年、淮南へ大規模に北伐することを軽々と行わず、戦 略の重心を荊州(けいしゅう)方向へと転じ、関羽(かんう)の防線を 奪取し劉備(りゅうび)の勢力と敵対するへの伏線となった。

反実仮想

もし曹操が三将の分業を記した密書を残していなければ、張遼と李典は 楽進と意見が合わず守城に終始した可能性が高く、孫権の先鋒部隊は十 日以内に合肥を攻略できたであろう。そうなれば孫呉の勢力が淮河南岸 まで直接届き、曹魏の南線の圧力が倍増し、漢中から撤兵を余儀なくさ れた可能性もある。漢中の戦況の結末も変わり、215年から219年にかけ ての三角対立のリズム全体が乱されていたであろう。逆に、もし孫権が 撤退時に自らを隊列の中央に置き殿後につかなければ、張遼が的確に 好機を掴んでも後衛を截撃するにとどまり、孫呉全体の損失はずっと小 さく、この戦いが江東の心理に与えた傷跡も二十年続くことはなかった であろう。逍遙津の真の歴史的価値はここにある——七千の守兵が周到に 設計された事前計画と正しい将帥の組み合わせのもとで、十万の大軍を 無為に帰すことができると後世に示したこと。指揮の技術が兵力の差を 逆方向に増幅させる作用は、しばしば兵力そのものよりも決定的である。