言語
龐

劉璋集団(りゅうしょうしゅうだん) · 巴西太守

龐羲(ほうぎ)

登場回
5
台詞の記録
0
人間関係
3
内面の独白
1

史書の記載(Historical Record)

龐羲(ほうぎ)は、その生没年は不詳で、劉焉(りゅうえん)・劉璋(りゅう しょう)父子が益州(えきしゅう)を統治した時期に重要な役割を果たした。当初、彼は劉璋と浅からぬ関係にあり、劉璋の諸子が危難に直面した際には手を差し伸べて助けたことさえあり、それゆえ劉璋の深い信任と器重を得た c:5254。劉璋が益州牧を継いだ後、漢中(かんちゅう)を占拠する張魯(ちょうろ)と仲が悪くなった。張魯の部曲(私兵)の多くは巴西郡にいたため、張魯の侵攻を防ぐべく、劉璋は龐羲を巴西太守に任じ、兵を率いて張魯に備えさせた c:5254。しかし、龐羲は幾度も兵を出して張魯を攻めたが、しばしば失敗した。この間、龐羲は劉璋の信任を深く得ており、また劉璋の諸子の危難を救ったため、劉璋の厚遇を得て、権勢をほしいままにすることができた c:5254。

しかし、好況は長く続かず、龐羲と劉璋との情誼はついに亀裂を生じ、関係は疎遠になった。これは当時の益州内部の動揺した情勢と切り離せない。益州牧の劉璋は性格が寛柔で、威略に欠けていたため、その統治下の「東州兵」(南陽(なんよう)・三輔地区から益州に流入した数万戸の流民から成る軍隊)が益州の旧民をしばしば侵害しても、劉璋はこれを制止できず、政令も多くの欠陥があり、益州の百姓には不満が少なくなかった c:5254。こうした背景のもと、もともと人心を得ていた趙韙はこの機に乗じて民の怨みを煽り、叛乱を企てた。彼はひそかに荊州(けいしゅう)と連絡を取り、益州の有力豪族と結び、ともに兵を起こして劉璋に反撃した。蜀郡、広漢、犍為などの郡が次々と趙韙に呼応した。叛乱に直面して、劉璋はやむなく成都(せいと)城に退いて守った。このとき、「東州兵」は畏れ(あるいは劉璋の恩を受けて)、劉璋と心を一つにして死力を尽くして戦い、ついに叛乱者を破り、江州(こうしゅう)で趙韙を攻めた。趙韙の部将・龐楽と李異(りい)が寝返り、趙韙を殺害した c:5254。まさにこうした複雑な政治環境のもとで、龐羲と劉璋の関係もまた破綻へと向かった。史料には、劉璋は判断力が足りず、しばしば外部の言に左右されて、衆が叛き親しい者が離れる事態を招いたと記されている c:5254。

劉備(りゅうび)が益州の主となった後、龐羲は帰順した。公元219年、劉備が漢中王を自称したとき、龐羲は「営司馬」の身分で、馬超(ばちょう)、許靖(きょせい)、射援、諸葛亮(しょかつりょう)、関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)、黄忠(こうちゅう)、法正(ほうせい)、李厳(りげん)ら百二十名の文武官員と連名で上書し、劉備に漢中王となるよう勧進した c:5255。この上書は劉備が王を称することの合理性と必要性を詳しく述べ、漢室が衰微し、曹操(そうそう)が権を盗み、天下が大いに乱れるなか、劉備が漢室の宗親として乱世を平定し社稷を鎮め守る能力を持つことを指摘した。彼らは劉備に旧典に従って漢中王に封じられ、大司馬を拝し、六軍を統べ、同盟を糾合し、凶逆を掃滅するよう請うた c:5255。これは龐羲が劉備集団(りゅうびしゅうだん)においてなお一定の地位を占め、重要な政治活動に参与していたことを示している。

演義の記載(In the Novel)

『三国演義』においては、龐羲の人物像は史実とおおむね一致するが、その筆致は比較的少なく、主に劉璋の時期に集中している。小説では、龐羲は第五十九回に初めて現れ、劉璋がその父・劉焉を継いだ後、張魯と母を殺された遺恨があったため、龐羲を巴西太守に任じて張魯の侵犯に備えさせたと描かれる c:5256。これは史実において龐羲が張魯を拒むために巴西太守に任じられたという記載と一致する。しかし演義は、龐羲と劉璋の情誼が破綻する細部を深く描いておらず、彼が権勢をほしいままにしたことや趙韙の叛乱との関係にも触れておらず、この部分の史実は簡略化あるいは無視されている。

龐羲が演義で二度目に現れるのは第六十五回で、劉備が益州を攻め取った後、文武の官員を大いに封じる場面である。このとき、龐羲は「営中司馬」に任じられた c:5257。この任命は、史実において劉備が漢中王を称したときに龐羲が「営司馬」を務めたという記載と符合する c:5255。演義は多数の降伏者や旧部の官員への封賞を列挙することで、劉備集団の壮大化と益州の全面的掌握を示している。龐羲が劉璋の旧部として新政権で一官を得られたことは、劉備の益州士人を取り込む方策を側面から反映している。演義における龐羲の描写は、より多くは劉璋集団(りゅうしょうしゅうだん)の一員として、また劉備の入蜀後に編入された文官の一人としてのものであり、その個人の性格や具体的な事跡は十分に展開されておらず、主に情節を推し進め政権の交代を示す役割を果たしている。

主要な関係

* 劉焉:龐羲と劉焉の関係は史料では直接言及されていないが、劉璋の腹心として、彼は劉焉の統治時期にすでに益州で官に就いていたはずである。
* 劉璋集団:龐羲は劉璋の重要な腹心であり、劉璋の諸子の危難に手を差し伸べたことで劉璋の深い信任を得た c:5254。彼は巴西太守に任じられ、張魯に備える任に当たり、一時は権勢をほしいままにした c:5254。しかし、後期には劉璋との関係が疎遠になり、情誼は破綻した c:5254。
* 張魯:巴西太守として、龐羲の主な職責は張魯を防御し攻めることであったが、幾度も失敗した c:5254。
* 趙韙:史料には趙韙が叛乱を起こした際、龐羲と劉璋の情誼にはすでに亀裂が生じていたと記されるが、龐羲が趙韙の叛乱やその鎮圧に直接参与したわけではない。
* 劉備集団:劉備が益州の主となった後、龐羲は帰順し、営司馬の身分で、ほかの重要な文武官員とともに上書して劉備に漢中王となるよう勧進した c:5255。演義でも、彼は同様に劉備によって営中司馬に任じられた c:5257。

象徴的な場面

* 巴西太守を拝命し、張魯に備える:劉璋は張魯と仲が悪くなったため、龐羲を巴西太守に任じ、兵を率いて張魯に備えさせた。これは龐羲が劉璋集団において最も重要な軍事的職責であり、また彼が権勢をほしいままにする端緒でもあった c:5254。演義でも、この任命は描かれている c:5256。
* 劉備に漢中王となるよう勧進する:劉備が益州を攻め取った後、龐羲は帰順し、営司馬の身分で、馬超、許靖、諸葛亮ら百二十名の文武官員と連名で上書し、劉備に漢中王となるよう勧進した。この出来事は、龐羲が正式に劉備集団に溶け込み、劉備政権樹立という重要な歴史的瞬間に参与したことを示している c:5255。演義でも、龐羲が劉備によって営中司馬に封じられたことが記されている c:5257。
* 劉璋との情誼の破綻:史料には、龐羲と劉璋は後期に情誼に亀裂が生じ、関係が破綻したと記されており、これは当時の益州内部の政治的動揺と劉璋の統治の拙さに関わっている c:5254。この場面は演義では詳しく描かれておらず、史実独自のものである。

人間関係

3 件の関係

登場回5 回 ▸
  • 史ch.31ch.32ch.45
  • 演ch.59ch.65
関係の年表1 条 ▸

史 ch.31

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 巴西で任に就いた時、私にとってはまさに進退が一身にかかる時であった。季玉(きぎょく)は張魯(ちょうろ)と怨恨を抱き、私たちに幾度も攻めさせたが、戦況は不利で、張魯の部曲もまた巴西に多くいた。そこで私は太守の職に就き、兵を率いて張魯に備えた。