史載(Historical Record)
劉放(りゅうほう)、字は子棄、その生没年は不詳であるが、その一生は曹魏(そうぎ)政権において重要な役割を演じた。彼はその卓越した才華と、主上の意に善く従うことをもって知られている。最初、劉放は王松に依附していた。建安十年(205年)、曹操(そうそう)が南皮(なんぴ)に袁譚(えんたん)を討伐した際、かつて書を送って王松を招降した。劉放は王松に代わって曹操に返書し、その文辞は華麗で、深く曹操の賞識を得た。曹操はその文采を讃嘆したのみならず、その才名を聞き及び、ついに劉放を辟召した。劉放が王松とともに到着すると、曹操は大いに喜び、劉放に言った。「昔、班彪は竇融に依附して河西の功があった。今、お前と王松の事は何とこれに似ていることか」。かくして、劉放は司空軍事に任命され、後に主簿、記室を歴任し、郃陽、祋祤、贊の令などの職に出任した。
魏の明帝・曹叡(そうえい)の在位期間、劉放は孫資(そん し)とともに中書監・令を務め、深く皇帝の信任を得て、共に朝政の決策を掌り、大臣たちは皆と交わりを結ばぬ者はなかった。しかし、尚書僕射の辛毗(しんぴ)だけは彼らと往来しなかった。辛毗の子・辛敞はかつて父を諫め、劉・孫の二人は権勢が極まり、衆人は皆これに趨り附くゆえ、辛毗に少しく意気を降して彼らと光を和らげ塵に同じることで謗言を招かぬよう勧めた。だが辛毗は正色して言った。魏の明帝は決して昏庸の主ではなく、自分は身を立てるに自ずから原則があり、たとえ劉・孫と睦まじくなくとも、せいぜい三公に列することができぬにすぎず、性命の憂いはなく、高位を求めて自身の節操を毀損することは願わないと。後に、畢軌(ひつき)はかつて魏の明帝に辛毗を王思に代えるよう推挙した。魏の明帝はこの事について劉放と孫資に尋ねたところ、二人は応えた。陛下が王思を用いるのはその実効を重んじるからであって、虚名のためではない。辛毗は正直ではあるが、性情が剛烈で専断であるゆえ、陛下に深く思慮していただく必要があると。最終的に、魏の明帝は劉・孫の意見を採り、辛毗を用いず、かえって彼を衛尉に外放した。
魏の明帝が病重の際、かつて燕王・曹宇(そうう)を大将軍に立て、夏侯献、曹爽(そうそう)、曹肇(そうちょう)、秦朗(しんろう)らとともに輔政させようと考えた。だが曹宇は人となりが恭謹で謙譲であり、断固として辞退した。明帝は劉放、孫資を臥内に召し、燕王が辞退する故を尋ねた。劉・孫の二人は対えた。「燕王は実に自ら大任に堪えざるを知るがゆえです」。明帝はまた問うた。「曹爽は曹宇に代わりうるか」。劉放、孫資はこの機に乗じて賛成し、速やかに太尉・司馬懿(しばい)を召して皇室を安定させるべきだと力説した。明帝はその言を採り、ただちに黄紙を劉放に授けて詔書を草させた。しかし、劉放、孫資が殿を出た後、明帝はまた考えを改め、詔を下して司馬懿の来ることを阻んだ。ほどなくして、明帝は再び劉放、孫資を召して言った。「我は本、太尉を召そうとしたが、曹肇らに阻まれ、危うく我が大事を壊すところであった」。かくして劉放に改めて詔を草するよう命じ、単独で曹爽を召して劉放、孫資とともに詔を受けさせた。最終的に、曹宇、夏侯献、曹肇、秦朗らは皆官を免じられた。司馬懿が到着すると、床に登って詔を受け、その後、明帝は崩御した。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』においては、劉放の形象は主に魏の明帝・曹叡が病危で孤を託す鍵を握る時刻に集中している。演義の劉放への描写は史実とおおむね符合するが、より曹叡の孤を託す過程における波風を立てる役割に重点が置かれている。小説の中で、魏の明帝・曹叡は病重のため、燕王・曹宇を大将軍として太子・曹芳(そうほう)を輔佐し摂政させようとした。しかし、曹宇は人となりが恭倹で温和であり、この重任を担うことを願わず、断固として辞退した。この時、魏の明帝は侍中・光禄大夫の劉放と孫資を召し、宗室のうち誰が大任に堪えうるかを尋ねた。劉放と孫資の二人は、かつて曹真(そうしん)の恩恵を受けたゆえ、曹真の子・曹爽を保挙した。魏の明帝は彼らの建議を採った。
その後、劉放と孫資はまた進言し、もし曹爽を重用しようとするならば、燕王・曹宇を国へ帰らせるべきだと述べた。魏の明帝はこの提議に同意した。二人はそこで魏の明帝に詔を降すよう請い、詔書を持って燕王・曹宇に告諭し、即日国へ帰り、詔なくしては朝に入ることを得ずと命じた。燕王・曹宇はやむなく涕泣して去った。最終的に、曹爽は大将軍に封じられ、朝政を総摂した。演義において、劉放と孫資のこの行為は私心を帯びたもの、すなわち「二人は久しく曹真の恵を得た」ものとして描かれ、それによって曹爽の上位を推進したのであって、史実における明帝が多方の考量と繰り返しの権衡の後の最終的な決定ではない。小説は明帝が最初に司馬懿を召し、後にまた阻み、再び最終的に召し戻すという繰り返しの過程には触れず、直接、劉放、孫資を曹爽上位の直接的な推進者として造形し、歴史の複雑さを簡略化している。
関鍵関係
* 王松:劉放が早期に依附した対象であり、かつて彼に代わって曹操に返書し、文采が出衆であったゆえ、ともに曹操に辟召された。
* 曹魏(そうぎ):劉放が尽力した政権であり、その中で司空軍事、主簿、記室、郃陽令などの職を務め、孫資とともに中枢の機要を掌った。
* 孫資(そん し):劉放の親密な友人にして政治的盟友であり、二人は共に深く魏の明帝の信任を受け、ともに政務を処理し、魏の明帝が孤を託す際に共に進言した。
* 曹爽(そうそう):魏の明帝が孤を託す際、劉放と孫資は共に曹爽を保挙し、彼が大将軍となって朝政を総摂することを促した。演義では彼らが曹真の恵を受けたために曹爽を保挙した動機が強調されている(演義独自)。
* 魏の明帝・曹叡(そうえい):劉放は深くその信任を得て、孫資とともに中枢を掌り、明帝が病重の際に重要な託孤の決策に参与した。
* 辛毗(しんぴ):劉放、孫資と政見が合わず、彼らと往来しなかった。劉放、孫資はかつて魏の明帝に進言し、辛毗が王思に代わることができず、かえって外放される結果を招いた。
標志的場面
* 曹操に代筆して返書し、その賞識を受ける:劉放は王松に代わって曹操の招降の書に返書し、その文辞は華麗で、深く曹操の賞讃を得て、これによって辟召され、曹魏での仕途を開いた。この事件は劉放の卓越した文采と才華を示すものであり、その政治生涯の起点である。
* 魏の明帝の託孤、曹爽を力推する:魏の明帝が病重の際、劉放と孫資は臥内に入り、明帝が託孤の人選を尋ねた際に曹爽を力推し、曹爽が大将軍となることを促した。この場面は劉放の政治生涯における最も輝かしい時であり、直接、曹魏後期の政治的構図に影響を与えた。演義では、この場面は劉放と孫資が曹真の恩恵を受けたために曹爽を保挙し、燕王・曹宇を国へ帰らせるものとして描かれ、曹爽上位における彼らの鍵を握る役割をいっそう際立たせている。
* 孫資とともに政を秉り、異己を排斥する:劉放と孫資は共に中枢を執掌し、深く魏の明帝の信任を受けた。畢軌が辛毗を推挙した際、劉放と孫資は明帝に進言し、辛毗が「性剛にして専」であると指摘し、最終的に辛毗は重用を得られず、かえって外放される結果となった。この場面は、劉放と孫資の朝中における権勢と政局への影響力を体現している。
人間関係
3 件の関係
名言
全 4 件の台詞 · 厳選 2 件
「惟曹子丹之子曹爽可也。」
この言葉は曹爽(そうそう)の専権を直接もたらし、魏国の政局に影響を与えた。
「陛下用思者,誠欲取其効力,不貴虛名也。毗實亮直,然性剛而專,聖慮所當深察也。」
この言葉は劉放(りゅうほう)の曹叡(そうえい)への政治的影響力と、人物への的確な評価を示している。
登場回3 回 ▸
- 史ch.14ch.25
- 演ch.106
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は劉放(りゅうほう)、字は子棄(しき)である。昔、建安十年、太祖が書状で孫松(そん しょう)を招いたことを思い起こす。孫松は雍奴、泉州、安次を挙げて帰順し、太祖は私に代筆して返書を作らせた。筆を執ったとき、ただ言葉が適切で、意を伝えるに足