言語
呉

呉質(ごしつ)

登場回
4
台詞の記録
1
人間関係
4
内面の独白
1

史書の記載(Historical Record)

呉質(ごしつ)、字は季重、済陰の人。その卓越した文才によって魏の文帝曹丕(そうひ)の賞識と親近を深く得た。彼は才学が通博であるのみならず、兄弟間の関係を処理することにも長け、前世の楼君卿が五侯に游んだ者になぞらえられた。曹操(そうそう)の河北平定(そうそうのかほくへいてい)の後、曹丕が世子に立てられると、呉質は劉楨(りゅうてい)らとともに皆その幕府の中にあった c:963。

しかし、劉楨が譴に坐して罰を受けた際、呉質は外に出されて朝歌長となり、のちにまた元城令に遷った。たとえ外地に身を置いても、曹丕の呉質を思う情は言葉にあふれていた。曹丕が太子の任にあった期間、しばしば呉質に書を致し、書中には往時の南皮(なんぴ)の游への限りなき追憶が流露し、時の流れと故友の凋落を嘆じていた。彼は徐・陳・応・劉ら建安の文人が相次いで世を去った悲しみ、および呉質の才への肯定と期待に言及した c:963。曹丕は書中で、両人が往時に車を同じくし席を同じくし、酒を酌み交わして語らい、詩を賦し楽を作した情景を回想し、「百年は己が分と謂い、長く相ともに保たんとせしに、何ぞ図らんや数年の間に、零落ほぼ尽き、これを言えば心を傷ましむ」と嘆じた c:963。

魏国が建つと、文帝曹丕は呉質を洛陽(らくよう)に召し、北中郎将に任じ、列侯に封じ、節を持して幽・并の諸軍事を都督させ、治所を信都に設けた。これは曹丕の呉質への信任と重用を示すものであった。呉質が黄初五年に入京して朝覲したとき、文帝はあろうことか上将軍および特進以下の官員に皆呉質のもとへ赴いて歓会させ、大官に必要な器物を提供させた。その地位の尊崇ぶりがうかがえる c:963。

ある酒宴において、呉質はかつて曹真(そうしん)・朱鑠らの将と衝突を起こした。彼は曹真の肥満と朱鑠の痩躯を嘲弄したため、曹真を大いに怒らせ、刀を抜いて向かわせた。呉質もまた負けじと、剣に手をかけて反撃し、場面は一時きわめて緊迫したが、最終的に朱鑠の取りなしによってようやく鎮まった c:963。

文帝曹丕の崩御後、呉質は悲痛のあまり、詩『思慕』を作って哀思を寄せ、曹丕への深い懐かしみと、自らが拠り所を失った悲しみを表した。詩中の「煢煢として恃む所靡く、涙下ること連珠のごとし」c:963 の句は、彼と曹丕との間の深い情誼を十分に示している。

太和四年、呉質は入朝して侍中となった。彼は明帝曹叡(そうえい)に対し、驃騎将軍司馬懿(しばい)の忠智にして至公なること、社稷の臣であることを盛んに讃え、司空の陳羣(ちんぐん)は従容として余りあるものの、国相の才ではないと述べた。明帝はその進言を採用し、これによって陳羣を責めた。しかし、天下の人々は司空陳羣の才が呉質に勝ると考え、呉質の言論は実に反すると指摘した。呉質は同年の夏に世を去り、初めは「醜侯」と諡されたが、のちにその子呉応が上書して申し弁じ、正元年間に至って「威侯」と改諡された c:963。

演義の記述(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』において、呉質の人物像は主にその曹丕のために世子の位を争うべく策を巡らせることをめぐって展開し、とりわけ曹操が曹植(そうしょく)を世子に立てるか躊躇したとき、呉質は鍵となる役割を演じた c:964。

演義は次のように描く。曹操の第三子曹植はその才華のゆえに曹操に深く愛され、曹操は彼を世子に立てる意があった。曹丕はこの事を知ると、密かに朝歌長の呉質を府に請じて対策を協議した。気づかれるのを避けるため、呉質は大きな簏の中に隠され、絹疋が入っていると偽って曹丕の府中へ運び込まれた。この事は楊修(ようしゅう)に知られ、曹操に告発された。曹操はそこで人を遣わして曹丕の府門の外を監視させた。呉質はこれを知ると、再び計を献じ、曹丕に翌日もなお大きな簏に絹を入れて運び込ませ、曹操が遣わした使者を惑わせた。使者が捜索すると、果たして絹疋のみが見つかり、曹操に復命した。曹操はこのため楊修が曹丕を誣告したと疑い、楊修をますます厭うようになった c:964。

この筋は史書には明確な記載がなく、『三国演義』が曹丕の心機と呉質の知略を際立たせるために行った芸術的虚構である。演義における呉質は、より多く知略に富み権謀に長けた幕僚の人物像として造形されており、その主な役割は曹丕が世子争いにおいて優位を占めるのを推し進めることにあって、史書に示された文人の友誼や朝堂の争議ではない。

主要な関係

* 曹丕(友人):呉質と曹丕の関係はきわめて密接で、情は手足のごとくであった。史書には曹丕が太子であったとき、しばしば呉質に書を致し、書中に往時の南皮の游への限りなき追憶が流露し、時の流れと故友の凋落を嘆じ、呉質の才に高い評価を与えたとある c:963。曹丕は即位後、さらに呉質を重用し、列侯に封じ、幽・并の諸軍事を都督させた。文帝の崩御後、呉質は悲痛のあまり、詩『思慕』を作って哀思を寄せ、両人の情誼の深さがうかがえる。演義においては、呉質は曹丕の腹心の謀士として、その嫡を争うべく策を巡らせ、曹丕が世子の位を争ううえでの鍵となる助力であった c:964。

象徴的な場面

* 南皮の游と書信の往来:曹丕は太子の時期、しばしば呉質に書を致し、両人が往時の南皮の游に興じた歓楽の時を回想し、「昔日の南皮の游を念うごとに、誠に忘るべからず」と嘆じた c:963。書中には呉質への思いを表すのみならず、建安の文人の凋落への悲しみ、および呉質の才への肯定も流露している。これらの書信は両人の深い友誼の生き生きとした写しであり、曹丕の呉質への真摯な情と、文人どうしの惺惺相惜むさまを示している。
* 大簏に身を隠して曹丕の嫡争いを助ける(演義独自):『三国演義』において、曹丕が世子争いに勝つのを助けるため、呉質は大きな簏の中に身を隠す計を献じ、絹疋が入っていると偽って曹丕の府中へ運び込ませ密かに協議した。楊修が告発すると、呉質は再び計を献じ、曹丕に同じ手を踏ませ、最終的に曹操を惑わせることに成功し、曹操に楊修への疑念を抱かせ、もって曹丕の地位を固めた c:964。この筋は演義における呉質の最も代表性をもつ場面であり、その知略と曹丕への忠誠を際立たせている。
* 酒宴の衝突と剣に手をかけての対峙:黄初五年、呉質が入京して朝覲したとき、文帝はわざわざ上将軍および特進以下の官員に皆呉質のもとへ赴いて歓会させた。酒宴において、呉質は曹真の肥満と朱鑠の痩躯を嘲弄したため、曹真を大いに怒らせ、刀を抜いて向かわせた。呉質もまた負けじと、剣に手をかけて反撃し、曹真を「何ぞあえて勢いを恃みて驕るや」と怒鳴りつけた c:963。この場面は呉質の豪邁な性格と権貴を畏れぬ胆識を示すとともに、当時の魏国の将どうしの複雑な関係をも側面から映し出している。

人間関係

4 件の関係

台詞

  • 演 ch.72 §12→ 曹丕(そうひ)

    「無憂也。明日用大簏裝絹再入以惑之。」

登場回4 回 ▸
  • 史ch.21ch.24ch.62
  • 演ch.72
関係の年表2 条 ▸

史 ch.21

演 ch.72

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は呉質(ごしつ)、字は季重、済陰の人である。若い頃は才学を頼みに貴戚の間を渡り歩き、郷里の人々と浮き沈みを共にしようとはしなかった。河北が平定された後、太子や文士たちと親しく付き合うようになった。今、南皮(なんぴ)で過ごした昔の日々を思い
生涯の大事1 ▸