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孫権集団 · 左大司馬

施績

字 公緒 · 別名 朱績 · –270

施績の肖像
他の人物と同じ場面に →

施績(しせき)は呉の将で、左大司馬などを歴任し、紀南での王昶追撃や孫綝政権下での密書による蜀との連携で知られる。

正史 『三国志』4巻に登場 · 『演義』に登場せず

生涯

正史 4 巻

生涯270280生涯270登場演史正史 第27巻 · 台詞 0 段正史 第48巻 · 台詞 0 段正史 第56巻 · 台詞 1 段正史 第58巻 · 台詞 0 段120406080100120

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ほか 4 件

史載(史書の記録)

施績(しせき)は字を公緒(こうしょ)といい、若い頃、父の縁故によって郎に任じられ、のちに建忠都尉に任じられた。叔父の朱才(しゅさい)が亡くなると、その部隊を引き継ぎ、太常の潘濬(はんしゅん)に従って五溪を討伐し、胆力で知られた。その後、偏将軍、営下督を歴任し、盗賊の取り締まりも兼ねたが、法の執行に偏りはなかった。孫権(そん けん)の子である魯王の孫覇(そん は)が施績の官署を訪れ、親交を結ぼうとしたことがあった。しかし施績は立ち上がって丁重に断り、親交を受け入れなかった。朱然(しゅぜん)が亡くなると、施績はその事業を受け継ぎ、平魏将軍、楽郷督に任じられた。

魏の将軍、王昶(おうちょう)が江陵(こうりょう)を攻めたが、攻略できずに退却した。施績は追撃を主張し、奮威将軍の諸葛融(しょかつゆう)に書簡を送り、前後から挟撃しようと誘った。諸葛融が承諾すると、施績は軍を率いて紀南(きなん)で王昶に追いつき、先陣を切って戦って勝利した。しかし諸葛融は進軍せず、施績はその後敗れた。孫権は施績を褒め、諸葛融を責めて怒ったため、二人の溝はさらに深まった。建興元年、施績は鎮東将軍に昇進した。

建興二年、諸葛恪(しょかつかく)が新城を攻め、施績に兵を合わせるよう求めたが、施績を半州にとどめ、諸葛融にその職務を兼任させた。冬、諸葛恪と諸葛融が殺されると、施績は楽郷に戻り、仮節を授かった。太平二年、驃騎将軍に任じられた。孫綝(そんちん)が権力を握り、朝臣たちが疑い恐れるなか、施績は呉国の動乱が魏国につけ込む隙を与えることを懸念し、密かに書簡を蜀漢(しょくかん)に送り、蜀側に情勢の変化へ備えさせた。蜀は閻宇(えんう)に五千の兵を率いさせて白帝の守備を増強し、施績からの続報を待った。永安(えいあん)初年、施績は上大将軍、都護督に昇進し、巴丘(はきゅう)から西陵(せいりょう)までの一帯を担当した。元興元年には左大司馬に任じられた。五鳳年間、施績は上表して施姓に戻すことを願い出て、許可された。建衡二年に亡くなった。

『三国志(さんごくし)』には、蜀国が魏軍の攻撃を受けた際、呉が留平(りゅうへい)を南郡(なんぐん)に派遣し、施績と出兵の方向を協議させ、丁奉(ていほう)らがそれぞれ兵を出して蜀を救援したと記されている。劉禅(りゅう ぜん)が魏に降伏したとの知らせが届くと、呉軍はようやく行動を停止した。

演義での描写

『三国演義』にこの人物は登場しない。現存する資料には、小説における施績の人物造形に関する記述がないため、小説内での言動や戦功を付け加えることはできない。以下の生涯と官歴は、いずれも『三国志』の記載に基づく。

重要な人間関係

施績と朱然の関係には、家の継承と姓の変更という二つの側面がある。施績は朱然の子として父の恩恵により郎に任じられ、朱然が亡くなるとその事業を受け継いだ。五鳳年間には上表して施姓に戻した。資料によれば、叔父の朱才が亡くなった後、叔父の部隊を引き継いだこともある。

施績と孫覇、諸葛恪、諸葛融との関わりは、それぞれ異なっていた。孫覇が親交を求めた際、施績はこれを拒んだ。諸葛恪、諸葛融とはもともと折り合いが悪く、紀南で王昶を追撃した際、諸葛融が約束どおり進軍しなかったために敗れ、両者の溝はさらに深まった。後に諸葛恪は施績に力を合わせて新城を攻めるよう求めたものの、施績を半州にとどめた。

呉と蜀の関係において、施績は資料に記された蜀漢への降伏者ではない。孫綝が権力を握った際、呉国の動乱と魏国の乗ずる隙を警戒し、密かに蜀側へ書簡を送ったのである。蜀軍は白帝の守備を増強し、施績からの続報を待った。

代表的な場面

施績が孫覇の親交の申し出を断った場面は、慎重な処世を示している。孫覇は自ら官署を訪れ、親交を結ぼうとしたが、施績は交際を受け入れなかった。史書は短い動作で彼の姿勢を描いているが、断った具体的な理由は記していない。

紀南での追撃は、施績の積極性と、戦場での妨げを示している。王昶が退却すると、施績は敵軍が疲弊していると判断し、諸葛融に前後からの挟撃を持ちかけた。自ら先に交戦して勝利したものの、その後の連携が実現せず、敗北した。この戦いの後、孫権は施績を褒め、諸葛融を責めて怒ったため、二人のもともとの不和はいっそう深まった。

もう一つの重要な場面は、呉国の政局が不安定になった時に訪れる。施績は孫綝の権力掌握が内乱を招き、魏国が機に乗じて攻め込む可能性を懸念し、秘密裏に蜀漢と連絡を取った。蜀側は兵を派遣して白帝の守備を増強した。このことから、密書が実際の軍事準備につながったことがわかるが、施績がその後に送った「後命」の具体的な内容は資料に記されていない。

台詞

  • 史 ch.56 §22→ 諸葛融

    「昶遠來疲睏,馬無所食,力屈而走,此天助也。今追之力少,可引兵相繼,吾欲破之於前,足下乘之於後,豈一人之功哉,宜同斷金之義。」

人間関係

7 件の関係

施績 の人物関係図朱然許旻鍾離茂諸葛融孫覇王昶潘濬施績
  • 親族
  • 君臣
  • 敵対
  • その他
扇形は関係の種類ごとの区分。内側の環は最も関わりの深い 7 人。ノードにホバーまたはフォーカスすると詳細を表示

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朱然

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朱然

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正史 · 巻 56

  • 潘濬§21

    交戦

    叔父の朱才が没した後、その兵を引き継ぎ、太常潘濬に従って五溪を討った

  • 王昶§22

    交戦

    王昶は江陵を攻めたが攻略できずに退き、施績は諸葛融に書を送り、共に追撃しようとした;紀南に至ると、施績は先に戦って勝ったが諸葛融は進まず、施績は後に敗れた

  • 好敵手

    諸葛融に書を送り、王昶を追うことを約した;融は承諾の返書をしたが、進まなかった;もともと諸葛恪、融と不仲であったが、この事変の後、いっそう険悪になった