言語
韓

曹魏(そうぎ) · 中护军

韓浩(かんこう)

登場回
3
台詞の記録
4
人間関係
4
内面の独白
1

史載(Historical Record)

韓浩(かんこう)、字は元嗣、河内の人である。漢末に天下が大いに乱れ、盗賊が群がり起こると、韓浩は人々を集めて自衛し、郷里の藩屛となった。太守の王匡(おうきょう)はその才を重んじて彼を従事に任じ、兵を率いて盟津で董卓(とう たく)を防がせた。董卓は韓浩を脅迫しようとして、その舅父の杜陽を捕えたが、韓浩はこれによって屈することはなかった。袁術(えんじゅつ)はその事跡を聞き、その忠勇を賞賛して、彼を騎都尉に任じた。夏侯惇(かこう とん)もまたその名を聞き、彼と会見した後、大いに賞賛し、そこで彼に従軍して征伐するよう請うた。 c:6712

曹操(そうそう)が初めて挙兵した時、韓浩はすぐに付き従った。あるとき、夏侯惇が濮陽(ぼくよう)で呂布(りょふ)の部将に拘束され、軍中が震撼した。韓浩は機を逃さず決断し、兵を率いて夏侯惇の営門に屯し、軍吏や諸将を召集して、各々その位置を安んじてみだりに動かぬよう命じ、軍心を安定させた。続いて、彼はみずから夏侯惇が拘束された場所へ赴き、拘束者を叱責して、国法に従って処置すると言明した。韓浩の断固たる態度に直面し、拘束者は驚いて叩頭し、ただ財物を求めるだけだと言った。韓浩は動じることなく、拘束者を斬るよう命じた。夏侯惇はこれによって危難を脱することができた。曹操はこれを聞き、韓浩のこの挙措は「万世の法」となしうると賞賛し、今後、人質を取る者があれば、皆で力を合わせて攻撃し、人質の安危を顧みる必要はないと命じた。以後、人質を取る事はついに絶えた。 c:4175

韓浩はその忠勇で著名であり、沛国の史渙(しかん)と名を斉しくした。彼は官は中護軍に至り、禁兵を統べ、列侯に封じられた。曹操が柳城(りゅうじょう)を討伐しようとしたとき、領軍の史渙は道のりが遠く深入りするのは万全の策ではないと考え、韓浩とともに諫言しようとした。しかし、韓浩は、曹操は神武であり、挙措に遺策はなく、いまこそ天下の後患を翦除する好機であって、軍心を沮喪させるべきではないと考えた。最終的に、曹操は韓浩の意見を採用し、柳城を攻め破ることに成功した。この後、韓浩の官職は中護軍に改められ、長史・司馬が置かれた。張魯(ちょうろ)を征討する際、ある者は韓浩の智略は辺境を安定させるに足ると考え、彼を留めて諸軍を都督させ漢中(かんちゅう)を鎮守させるよう進言した。しかし、曹操は「吾、いかんぞ護軍なくしてあるべけんや」と言い、あくまで韓浩を連れ帰った。これによって曹操の韓浩への親近と信任がうかがえる。韓浩が世を去った後、曹操は深くこれを惜しんだ。彼に実の子はなく、養子の韓栄が爵位を継いだ。 c:6712

演中(In the Novel)

『三国演義』において、韓浩の形象はある程度、史実における忠勇を受け継いでいるが、より多く夏侯惇の副将として描かれ、いくつかの重要な戦役に参加し、その出番と台詞は史書に比べて増えている。彼が初めて登場するのは、曹操が夏侯惇に兵十万を率いて新野(しんや)を攻めさせたときで、韓浩は于禁(うきん)・李典(りてん)・夏侯蘭(かこう らん)とともに副将に任じられた。 c:6713

博望坡(はくぼうは)の戦いにおいて、韓浩はかつて夏侯惇を諫めようとし、趙雲(ちょううん)が誘敵深入を仕掛けており伏兵があるかもしれないと指摘した。しかし、夏侯惇は劉備(りゅうび)と諸葛亮(しょかつりょう)を軽んじ、韓浩の諫めを聞かず、あくまで追撃し、最終的に諸葛亮の伏兵にかかった。 c:15450 この筋立ては史書には記載がなく、演義が諸葛亮の智謀と夏侯惇の敵を軽んじる態度を際立たせるために行った文学的創作である。

後期、韓浩は漢中の戦い(かんちゅうのたたかい)で再び現れる。彼は降将の韓玄(かんげん)の弟として描かれ、夏侯尚(かこう しょう)とともに張郃(ちょうこう)を援助するために派遣される。韓浩は黄忠(こうちゅう)に深い恨みを抱いていた。黄忠が魏延(ぎえん)とともに長沙(ちょうさ)城を献じ、その兄の韓玄が命を落としたためである。 c:4176 黄忠との交戦において、韓浩は夏侯尚と手を組み、一時、黄忠を撃破してその営寨を奪取した。しかし、黄忠の連日の敗退は実は誘敵の計であり、張郃はかつて夏侯尚と韓浩に注意を促したが、二人はこれを意に介さず、最終的に曹軍の失利を招いた。 c:15452c:15453 この韓玄との兄弟関係および黄忠との交戦の段は、いずれも演義独自の筋立てであり、人物関係と衝突を豊かにすることを目的としている。

主要な関係

* 夏侯惇: 韓浩は夏侯惇の腹心の部将であり、史実において危難の際に夏侯惇を救い、長く彼に付き従った。演義でもたびたび夏侯惇の副将として登場する。 c:4175c:6713
* 曹魏: 韓浩は曹操の重要な将領であり、曹操に深く信任され重用されて、官は中護軍に至り、禁兵を統べた。曹操はかつてその行いを「万世の法」と賞賛し、その死を深く惜しんだ。 c:4175c:6712
* 韓玄: 演義において、韓浩は韓玄の弟と設定されており、韓玄の死のために黄忠を恨みに思っている。(演義独自) c:4176
* 黄忠: 演義において、黄忠は韓浩の仇敵であり、二人は漢中の戦いでたびたび交戦した。(演義独自) c:4176c:15452
* 史渙: 史実において、韓浩は史渙とともに忠勇で名を顕し、ともに禁兵を統べ、二人はかつて柳城征伐の件で異なる意見を交わしたことがある。 c:6712

象徴的な場面

* 濮陽で主を救う: 夏侯惇が呂布の部将に拘束されたとき、韓浩は危難に臨んで乱れず、果断に処置して拘束者を斬り、夏侯惇の救出に成功した。この挙措は軍心を安定させただけでなく、曹操に人質事件を処理する模範を打ち立て、曹操に「万世の法」と称えられた。 c:4175
* 博望坡の諫言: 『三国演義』において、韓浩は博望坡の戦いでかつて夏侯惇に進言し、趙雲が誘敵深入を仕掛けており伏兵があるかもしれないと指摘したが、採用されなかった。この場面は韓浩の慎重さと洞察力を示し、また夏侯惇の敵を軽んじる態度を引き立てている。(演義独自) c:15450
* 漢中の復讐: 『三国演義』において、韓浩は兄の韓玄の死のために黄忠に深い恨みを抱き、漢中の戦いで黄忠とたびたび交戦して仇を討とうとした。この筋立ては韓浩の人物の動機を豊かにし、また戦役に個人的な恩讐の色彩を添えている。(演義独自) c:4176c:15452
* 柳城進撃を勧める: 曹操が柳城を討伐しようとしたとき、韓浩は衆議を排して、曹操は神武であり、いまこそ患いを除く好機であって軍心を沮喪させるべきではないと主張し、最終的に柳城の戦いの勝利を促した。 c:6712

人間関係

4 件の関係

名言

全 4 件の台詞 · 厳選 2 件

「趙雲誘敵,恐有埋伏。」

演 第39回

韓浩の慎重さと軍事的洞察力を示す一節であり、その人物像を体現している。

「我在長沙知此老賊利害。他和魏延獻了城池,害吾親兄,今既相遇,必當報讎。」

演 第70回→ 夏侯尚(かこう しょう)

韓浩と黄忠・魏延との因縁を明かす一節であり、その人物間の対立の核心である。

登場回3 回 ▸
  • 史ch.9
  • 演ch.39ch.70
関係の年表3 条 ▸

史 ch.9

演 ch.70

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は韓浩(かんこう)、河内の人で、字は元嗣(げんし)という。後漢末に兵乱が起こると、郷里の県は山林や沼沢に近く、盗賊の乱が絶えなかった。私は人々を集め、県の守りとした。太守の王匡(おうきょう)は私を従事に任じ、兵を率いて盟津で董卓(とう た
生涯の大事1 ▸