言語
杜

曹魏(そうぎ) · 大将军军师

杜襲(としゅう)

字 子緒

登場回
3
台詞の記録
5
人間関係
3
内面の独白
1

史載(Historical Record)

杜襲(としゅう)、字は子緒、潁川(えいせん)定陵の人である。その曾祖父の杜安、祖父の杜根はいずれも前代の名士であった。杜安は若い頃から神童の名で太学に入り、清高にして俗を絶することで知られ、かつて貴戚と交わることを望まず壁を穿って書を蔵し、後に宛令を務めた際には権勢を恐れず、仇を報いる者を極刑に処し、これによって自ら官を免じた。後にさらに召されて巴郡(はぐん)太守に拝され、礼をもって俗を化した。杜根は和熹鄧后が朝に臨んだ際、率直に諫めたことで捕らえられ、危うく命を落としかけたが、その徳が重く公に事えたことから生き延びることができ、十五年隠れ住み、鄧后が崩じた後に再び世に出て、官は済陰太守に至り、徳譲をもって政を行った。

杜襲は荊州(けいしゅう)で乱を避けていた間、劉表(りゅう ひょう)の賓礼をもって遇された。彼はかつて同郡の繁欽を諫め、劉表は乱を治める主ではなく、彼のために尽力すべきではないと指摘し、自らの志は時機を待つことにあり、劉表に依附することではないと述べた。繁欽はこれを聞いて慨然として命を受け、杜襲はその後南下して長沙(ちょうさ)へ向かった。

建安初年、曹操(そうそう)が漢の献帝を迎えて許に都した際、杜襲は郷里へ逃げ帰った。曹操は彼を西鄂長に任じた。当時、西鄂県は南境に位置し、盗寇が横行しており、他の長吏は皆民を城に入れて自ら守らせたため、田地が荒廃し、民生が困窮した。杜襲は自らと民の間に恩義があることをよく知っていたので、老弱を分散させて田に就かせ、丁壮を残して守備させたところ、民は皆喜んだ。荊州が一万の兵を出して城を攻めた際、杜襲は五十余名の吏民を召集し、彼らと盟誓した。外に親戚がいて自らを守ろうとする者には、杜襲はその去るに任せたが、皆叩頭して死戦を願った。杜襲は自ら矢石を執り、衆を率いて心を一つにして力を尽くした。吏民はその恩徳に感じ、皆彼のために命を尽くした。この戦いで敵数百人を斬り、杜襲の側は三十余人が死に、十八人が負傷し、最終的に城は攻め破られた。杜襲は負傷した吏民を率いて包囲を突いて脱出し、死傷は甚大であったが、一人として裏切る者はなかった。彼は散った民を収め、摩陂の営へ移したが、吏民はその徳行を慕い、肉親に帰するかのようであった。

後に、司隷(しれい)の鍾繇(しょうよう)が杜襲を議郎参軍事に推挙し、荀彧(じゅん いく)も曹操に彼を推薦したので、曹操は杜襲を丞相軍祭酒に任じた。魏国が建てられた後、杜襲は侍中に任じられ、王粲(おうさん)、和洽(わこう)とともに用いられた。王粲は博聞強識でしばしば曹操に親近されたが、曹操は杜襲と和洽への敬重のほうがいっそう深かった。杜襲はかつて曹操と二人きりで深夜まで語り合い、王粲はこれによって妬みを生じた。和洽は笑って、天下の事をことごとく知ることなどできようかと言い、王粲にあまりこだわらぬよう勧めた。

杜襲は後に丞相長史を領し、曹操に従って漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)を征討した。曹操が朝廷に凱旋した後、杜襲を駙馬都尉に拝し、漢中の軍事を督させて留めた。杜襲は民を綏撫して開導し、八万余口の民を喜んで洛陽(らくよう)、鄴(ぎょう)へ移らせた。夏侯淵(かこう えん)が劉備(りゅうび)に斬られた後、軍中の将士は色を失った。杜襲は張郃(ちょうこう)、郭淮(かくわい)とともに諸軍事を取りまとめ、便宜的に張郃を都督に推挙して軍心を安定させ、三軍はそれによって定まった。曹操が東へ還る際、留府長史を選んで長安(ちょうあん)を鎮守させる必要があったが、主事者が選んだ人物は多く適任でなく、曹操は「騏驥を釈てて乗らず、なにゆえ慌てて更に索めるのか」と嘆息し、最終的に杜襲を留府長史に任じ、関中を鎮守させた。

許攸(きょゆう)は兵を擁して重きをなし、曹操に対して慢言が多かった。曹操は大いに怒り、彼を討伐しようとした。群臣の多くは招撫を勧めたが、曹操は刀を膝に横たえ、色をなして聞き入れなかった。杜襲が入って諫めようとすると、曹操はあらかじめ彼を戒めた。「我が計は已に定まった。卿、再び言うな。」杜襲はこう応じた。「もし殿下の計が是であれば、臣は殿下がそれを成すのを助けましょう。もし殿下の計が非であれば、たとえ成ったとしても改めるべきです。殿下は臣に逆らって、言うなと命じられる。それでは下情の通じぬのを待つようなものではありませんか。」曹操は問うた。「許攸は我を侮る。どうして放っておけようか。」杜襲は反問した。「殿下は許攸をいかなる人物とお思いか。」曹操は答えた。「凡人だ。」杜襲は進言した。「そもそも賢のみが賢を知り、聖のみが聖を知ります。凡人がどうして非凡の人を知ることができましょう。今や豺狼が路に当たっているのに狐狸を先にすれば、人は殿下が強を避けて弱を攻め、進んでは勇ならず、退いては仁ならずと言うでしょう。臣は聞いております、千鈞の弩は鼷鼠のために機を発せず、万石の鐘は莛で撞いて音を起こさぬと。今、取るに足らぬ許攸ごときが、どうして神武を煩わすに足りましょうか。」曹操は聞いて善しとし、許攸を厚く待遇したので、許攸はついに帰服した。杜襲はまたかつて曹操に進言し、夏侯尚(かこう しょう)が太子と親しく交わるのは益友ではなく、特別に遇するに値しないと指摘した。文帝(曹丕(そうひ))は初め聞いて不興であったが、後に杜襲の言を思い起こした。杜襲の「柔にして犯さず」という性格は、ここからもうかがえる。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』において、杜襲の人物像は主に曹操の幕僚という身分に表れており、いくつかの重要な政治・軍事の出来事に参与している。第六十六回において、曹操は奏章を読み終えると、南征を罷め、学校を興し、文士を礼遇した。このとき、侍中の王粲、杜襲、衛凱、和洽の四人は、曹操を魏王に尊ぼうと議した。しかし、中書令の荀攸(じゅん ゆう)はこれに反対し、曹操は官が魏公に至り、栄えに九錫を加えられ、位は已に極まっており、さらに王位に進むべきではないと考えた。曹操はこれを聞いて大いに怒り、荀攸が荀彧に倣っていると考えたので、荀攸はこれによって憂憤のあまり病となり死んだ。曹操はその後荀攸を厚く葬り、しばらく王を称することを棚上げにした。この挿話において、杜襲は曹操が魏王を称することに賛成する一員として、史実において彼が曹操を諫めた人物像とは異なるが、なお曹操の腹心としての地位を体現している。

第七十一回において、杜襲は軍事行動の中で言及されている。黄忠(こうちゅう)が夏侯淵を斬った後、曹兵は大いに潰えた。張郃は兵を率いて黄忠を迎え撃ったが、黄忠と陳式(ちんしょく)の挟み撃ちに遭って敗走した。趙子龍がまた突然現れ、張郃は大いに驚き、敗軍を率いて定軍山(ていぐんざん)へ逃げ込んだ。このとき、杜襲が現れ、定軍山が已に劉封(りゅうほう)、孟達(もうたつ)に奪われたことを張郃に告げた。張郃は大いに驚き、杜襲とともに敗兵を率いて漢水(かんすい)に陣を構え、曹操へ急報した。曹操は夏侯淵の死の報を聞いて悲痛極まり、管輅(かんろ)の予言を追憶した。曹操は自ら大軍を率いて夏侯淵の仇を報いに来て、徐晃(じょこう)を先鋒とした。漢水に至った際、張郃、杜襲の二人は曹操に、米倉山の糧草を北山の寨へ移して屯積し、然る後に進兵するよう建議し、曹操はこれを容れた。この挿話において、杜襲は軍事の幕僚として、戦後の局勢の分析と建議に参与しているが、定軍山の戦役における彼の具体的な役どころは、史に明記がない。

主要な関係

* 劉表集団(defected_from):杜襲はかつて荊州で乱を避け、劉表の賓礼をもって遇された。しかし彼は劉表を見込まず、乱を治める主ではないと考え、最終的に去ることを選んだ。
* 曹魏(serves):杜襲は曹操の重要な謀士かつ官員であり、西鄂長から丞相軍祭酒、さらに侍中、丞相長史、最終的には留府長史に至るまで、曹魏政権の建立と安定に重要な貢献をした。
* 曹操(advises_in):杜襲はたびたび曹操に進言したが、とりわけ許攸の問題の処理において、その「柔にして犯さず」という諫め方で、許攸を招撫するよう曹操を説き伏せることに成功し、不必要な衝突を避けた。演義においては、杜襲はまた曹操を魏王に勧進することにも参与している(演義独自)。
* 許攸(advises_in):杜襲はかつて曹操を諫めることに成功し、曹操に慢言を吐いた許攸の討伐を諦めさせ、転じて厚く撫させ、最終的に許攸を帰服させた。
* 張郃、郭淮(cooperates_with):夏侯淵が戦死した後、杜襲は張郃、郭淮とともに軍心を安定させ、張郃を都督に推挙した。
* 王粲、和洽(colleagues):杜襲はかつて王粲、和洽とともに侍中を務め、曹操の敬重を受けた。
* 夏侯尚(criticizes):杜襲はかつて曹操に進言し、夏侯尚が太子と親しく交わるのは益友ではないと指摘した。

象徴的な場面

* 繁欽を諫め、劉表に附かず:杜襲は荊州にいた際、かつて同郡の繁欽に率直に、劉表は明主ではなく、身を委ねるに値しないと述べ、人を見抜き勢いを見極める能力と遠大な抱負を示した。
* 西鄂で城を守り、吏民を感化する:荊州軍の攻囲に直面し、杜襲は恩義をもって吏民を感化し、ともに城を守った。城が破れても、民は一人として裏切ることなく、彼に従って移り住み、その卓越した指導力と深い民望を体現した。
* 夜半に二人きりで会い、曹操に敬重される:杜襲はかつて曹操と二人きりで深夜まで語り合い、曹操は彼を敬重し、王粲の嫉妬を引き起こすほどであったことから、曹操の心中における杜襲の地位と影響力がうかがえる。
* 柔にして犯さず、曹操を説き伏せる:曹操が許攸を討伐しようとした際、杜襲はその独特な諫め方によって、許攸が大患ではないことを曹操に認識させるよう巧みに導き、最終的に許攸を招撫するよう曹操を説き伏せることに成功し、一場の不必要な衝突を避け、その「柔にして犯さず」という性格と高度な政治的知恵を十分に示した。
* 漢中を安定させ、民を安撫する:夏侯淵が戦死した後、杜襲は張郃、郭淮とともに軍心を安定させた。彼はまた漢中で軍を督していた間、民を綏撫して開導し、八万余口の民を喜んで移らせ、その優れた統治の能力を示した。
* 曹操を魏王に尊ぶことを議す(演義独自):『三国演義』において、杜襲は王粲らとともに議論し、曹操を魏王に尊ぼうとしたが、荀攸の反対に遭ったものの、曹操集団における彼の中核的な地位と曹操への支持を体現している。
* 定軍山の戦後に策を献ずる(演義独自):夏侯淵が戦死した後、杜襲は張郃とともに曹操に糧草を移すよう建議し、曹操の後続の軍事行動に策を提供して、その軍事における補佐の役割を示した。

人間関係

3 件の関係

名言

全 5 件の台詞 · 厳選 3 件

「吾所以與子俱來者,徒欲龍蟠幽藪,待時鳳翔。豈謂劉牧當爲撥亂之主,而規長者委身哉?子若見能不已,非吾徒也。吾其與子絕矣!」

史 第23回📍 荊州(けいしゅう)

この台詞は杜襲(としゅう)が劉牧(りゅうぼく)に屈従することを潔しとせず、志が高遠である様を示し、その人物の核心的特質の表れである。

「若殿下計是邪,臣方助殿下成之;若殿下計非邪,雖成宜改之。殿下逆臣,令勿言之,何待下之不闡乎?」

史 第23回

この台詞は杜襲(としゅう)が直諫を敢えてし、権勢を畏れないその忠誠と智慧を映し出す。

「夫惟賢知賢,惟聖知聖,凡人安能知非凡人邪?方今豺狼當路而狐狸是先,人將謂殿下避彊攻弱,進不爲勇,退不爲仁。臣聞千鈞之弩不爲鼷鼠發機,萬石之鍾不以莛撞起音,今區區之許攸,何足以勞神武哉?」

史 第23回

この台詞は「千鈞の弩は鼷鼠の為に機を発せず」などの比喩を用い、曹操(そうそう)に小のために大を失うなと諫め、極めて文化的な特色を帯びる。

登場回3 回 ▸
  • 史ch.23
  • 演ch.66ch.71
関係の年表3 条 ▸

史 ch.23

演 ch.66

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は杜襲(としゅう)、字は子緒、潁川(えいせん)定陵の人である。兵乱が相次ぐこの時節にあって、半生を振り返ると、士が守るべきものは時勢に応じて身を屈めたり伸ばしたりすることではなく、乱世にあってもなすべきことを見定めることだと、常々思う。か