史書の記録(Historical Record)
孫資(そん し)は、字を彦龍といい、幼年の頃から人並み外れた聡慧さを示した。三歳のとき父母をともに亡くし、兄嫂に養い育てられた。彼はかつて太学に学び、群書を博覧し、同郡の王允(おういん)は初めて彼に会うとその才華に深く驚いた。曹操(そうそう)が司空を務めた際、かつて孫資を召し出して仕官させようとしたが、その兄が郷人に害されたため、孫資は自ら手で仇を報いた後、家人を連れて河東に避居し、召しに応じることができなかった。その後、本郡が再び彼を召したが、彼は病を理由に辞退した。友人の河東の賈逵(かき)は孫資を説き、彼が群を抜く才を懐き、この乱世にあって、主公が殷勤に賢を求めているのだから、久しく郷野にとどまって君命を拒み違えるべきではないと考えた。孫資は賈逵の言に感じ、そこで召しに応じて仕官し、功曹を務め、計吏に挙げられた。尚書令の荀彧(じゅん いく)は孫資に会うと、嘆じて言った、「北方の州郡は喪乱を承けて久しく、もとより賢智は零落したと思っていたが、今日はからずもまた孫計君に会えようとは」。そして彼を留めて尚書郎に任じることを奏請した。孫資は家中に難があることを理由に辞謝し、河東に戻ることができた。
魏国が建てられた後、孫資は秘書郎を務めた。これに先立ち、孫資はまたかつて県令を務め、丞相軍事に参与した。魏の明帝である曹叡(そうえい)が病重くなった際、彼は劉放(りゅうほう)とともに寝宮に召し入れられた。曹叡はもともと燕王の曹宇(そうう)を大将軍に立て、夏侯献、曹爽(そうそう)、曹肇(そうちょう)、秦朗(しんろう)らとともに輔政させようとした。しかし曹宇は生まれつき恭謹で、固く辞退した。曹叡は劉放、孫資に問うた、「燕王はなぜこのようか」。二人は答えて言った、「燕王は実に自ら大任に堪えぬことを知っております」。曹叡はまた問うた、「曹爽は曹宇に代わりうるか」。劉放、孫資はその機に乗じて賛成し、できるだけ早く太尉の司馬懿(しばい)を召し還して皇室を安定させるよう極力主張した。曹叡は彼らの建議を採り、その場で黄紙をもって劉放に詔書を起草するよう意を授けた。劉放、孫資が宮を出た後、曹叡はまた考えを変え、詔して司馬懿が来るのを阻んだ。その後、曹叡は再び劉放、孫資を召して言った、「私はもともと太尉を召そうとしたが、曹肇らがかえって私にこれを阻ませた。あやうく私の大事を壊すところであった」。そこで彼らに再び詔書を起草するよう命じた。曹叡は単独で曹爽を召し、劉放、孫資とともに詔命を受けさせ、直ちに曹宇、夏侯献、曹肇、秦朗の官を免じた。太尉の司馬懿も間に合って駆けつけ、病床の前で詔命を受け、その後曹叡は崩じた。
演義の記述(In the Novel)
『三国演義』において、孫資の姿は主にその謀士・朝臣としての身分に表れている。彼が初めて登場するのは魏の明帝である曹叡が蜀を伐とうとしたときである。当時、孫資は曹叡に計を献じ、曹操がかつて張魯(ちょうろ)を攻めたとき、南鄭(なんてい)の地を「真に天獄たり」と言い、中斜谷道は五百里の石穴で、用武の地ではないと考えた。彼は曹叡に天下の兵をことごとく起こして蜀を伐つべきでないと建議し、東呉が虚に乗じて入るのを避け、兵を分けて険要を据え守り、精を養い鋭を蓄えるべきだとした。彼は数年の後、中原が日々強盛となれば、呉、蜀の二国は必ず自ら相残害し、その時に再びこれを図ってこそ、勝算ありと予言した。曹叡が司馬懿にこの論はいかがかと問うと、司馬懿もまた孫資の言は至当だと述べた。曹叡は孫資の建議を採り、司馬懿に諸将を分け置いて険要を守らせ、郭淮(かくわい)、張郃(ちょうこう)を留めて長安(ちょうあん)を守らせた。
孫資の演義におけるもう一つの重要な出番は、魏の明帝である曹叡が病重くなった際である。当時、曹叡は夜に明悼皇后毛氏(めいとうこうごうもうし)の鬼魂が命を索める驚きを受け、病状が日々重くなった。彼は侍中光禄大夫の劉放、孫資に枢密院の一切の事務を掌らせ、文帝の子である燕王の曹宇を大将軍に召し、太子の曹芳(そうほう)を補佐して摂政させようとした。しかし曹宇は人となり恭倹温和で、この重任を担おうとせず、固く辞退した。曹叡はそこで劉放、孫資を召して宗室の中で誰が任じうるかを問うた。劉放、孫資はかつて曹真(そうしん)の恩を受けていたので、曹真の子である曹爽を保挙した。曹叡は彼らの建議を採った。二人はまた曹叡に奏請し、もし曹爽を重用するなら、燕王を国に帰らせるべきだとした。曹叡は彼らの建議に従い、詔書を降し、劉放、孫資が宮を出て燕王に諭告し、即日国に帰り、詔なくして入朝するを得ずと命じた。燕王の曹宇は涙を流して去った。その後、曹爽は大将軍に封ぜられ、朝政を総摂した。演義はここで劉放、孫資が曹爽を保挙した動機を、明確に「久しく曹真の恵を得たればなり」に帰結させているが、これは史料には明記されておらず、文学的創作の補足に属する。
主要な関係
* 曹魏(そうぎ)(serves):孫資は一生を曹魏政権に捧げ、曹操の時期に召し出されてから、魏の明帝である曹叡の時期に秘書郎、侍中光禄大夫などの要職を務め、軍国の大事に参与し、深く器重された。
* 司馬懿(advises_in):『三国演義』において、孫資の計策はかつて司馬懿の認可と支持を得て、ともに魏の明帝の決策に影響した。史実では、孫資は曹叡が病重くなった際、劉放とともに曹叡に司馬懿を召し還して輔政させるよう力勧し、司馬懿の政治的地位の上昇に鍵となる作用を果たした。
* 劉放(co-conspirator/colleague):孫資は劉放と関係が密接で、魏の明帝である曹叡が病重くなった際、二人はともに進言し、曹叡の輔政大臣の選択を左右し、ともに詔書を起草し、当時の政治構図に深遠な影響を及ぼした。
* 曹叡(served):孫資は曹叡の重要な謀臣・近臣で、曹叡が病重くなった際には、さらに重任を委ねられ、国家の大事の決定に参与した。
* 曹爽(promoted_by):『三国演義』において、孫資は劉放とともに曹爽を大将軍に保挙し、彼に朝政を総摂させた。史実では、二人もまた曹爽が曹宇に代わって輔政することに賛成し、司馬懿の回帰を促し、間接的に曹爽と司馬懿がともに輔政する局面を促した。
象徴的な場面
* 蜀を伐つを諫止す(演義独自):魏の明帝である曹叡が蜀を伐とうとした際、孫資は衆議を排して、「精を養い鋭を蓄え、座して呉蜀の自ら相残害するを待つ」策を提出した。この計は司馬懿の賛同を得て、最終的に曹叡に採られ、魏国が不適な時機に大規模な戦争を起こすのを避けた。この場面は孫資の深謀遠慮の性格を表している。
* 病床で策を定む(史演合一):魏の明帝である曹叡が病重くなった際、孫資は劉放とともに宮に入り、曹叡の病床の前で、曹叡に燕王の曹宇を放棄し、曹爽を輔政大臣に改めるよう説得し、司馬懿を召し還すことを力主した。この決策は曹魏後期の政治の趨勢に深く影響し、司馬家族の台頭への伏線を敷いた。この場面は孫資の鍵となる時の政治的影響力と決断力を際立たせている。
* 手ずから仇人を斬る(史載):孫資の兄が郷人に害されると、孫資は自ら手で仇を報い、その剛烈果決な一面を示した。この事件はまた彼が一時河東に避居し、間に合って召しに応じて仕官できなかった原因ともなった。
* 賈逵の仕官の勧め(史載):孫資が家難のために仕官を辞退した際、友人の賈逵は「足下は逸羣の才を抱き、旧邦の傾覆に値い、主将は殷勤に、千里に頸を延ぶ」の語をもって彼の出山を勧め、最終的に孫資はその言に感じて召しに応じた。これは孫資が隠逸の心を持ちながらも、最終的にはなお天下の大義を重んじたことを反映している。
人間関係
3 件の関係
台詞
- 演 ch.96 §1→ 曹叡(そうえい)📍 洛陽(らくよう)
「昔太祖武皇帝收張魯時,危而後濟;嘗對群臣曰:『南鄭之地,真為天獄。』中斜谷道為五百里石穴,非用武之地。今欲盡起天下之兵伐蜀,則東吳又將入寇。不如以現在之兵,分命大將據守險要,養精蓄銳。不過數年,中國日盛,吳、蜀二國,必自相殘害,那時圖之,豈非勝算?乞陛下裁之。」
登場回4 回 ▸
- 史ch.14ch.25
- 演ch.96ch.106
関係の年表1 条 ▸
史 ch.14
- 司馬懿(しばい)§131
advises_in
与刘放劝召司马懿辅政
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は孫資(そん し)、字は彦龍(げんりゅう)である。幼くして両親を失い、兄夫婦のもとで育った。のちに太学で学業に励み、伝記を読み、古人が世に出るか退くかを判断した尺度を、少しずつ心に刻んでいった。太祖が司空だった時、私を召し出そうとしたが、