言語
国

曹魏(そうぎ) · 太仆

国淵(こくえん)

登場回
1
台詞の記録
1
人間関係
2
内面の独白
1

史載(Historical Record)

国淵(こくえん)は、字を子尼といい、楽安蓋県の人である。彼は著名な学者である鄭玄(ていげん)に師事し、鄭玄(ていげん)はかつて彼を「美才なり、吾その人を観るに、必ず国器とならん」と称賛し、将来必ず国家の柱石となるであろうと予言した c:1067。天下が大いに乱れた折、国淵(こくえん)は邴原(へいげん)・管寧(かんねい)らとともに遼東へ避難した。遼東にいた間、彼は学問に篤く古を好み、しばしば山巌の間で講学を行い、多くの士人が集まって推し慕い学んだため、その名声は高まった c:1067。

曹操(そうそう)が政を執るようになると、国淵(こくえん)は故郷へ帰り、曹操(そうそう)に司空掾属として召し出された。朝堂で議事を行う際、彼は常に直言してはばからず、表情は端正であり、退朝の後も決して私利を図ることはなかった c:1067。曹操(そうそう)が大規模に屯田制度を推進しようと考え、国淵(こくえん)にこの事を主管させた。国淵(こくえん)は実施の過程において、たびたび有利・不利の進言を行い、自ら土地を勘察し、百姓を適切に配置し、官員を合理的に設け、功績を考課する制度を明確にした。五年の努力を経て、曹魏(そうぎ)の倉廩を充実させ、百姓もまた積極的に労働に励み、安んじて生業を楽しむようになった c:1067。

曹操(そうそう)が関中を征討した際、国淵(こくえん)を居府長史に任じ、留守の事務を担当させた。当時、河間地区において田銀・蘇伯らの叛乱が起こり、叛乱が平定された後も、なお法に伏さぬ余党が残っていた。国淵(こくえん)はこれらの余党が首謀者ではないと考え、曹操(そうそう)に彼らを極刑に処さぬよう請うた。曹操(そうそう)は彼の進言を容れ、これによって千余人が国淵(こくえん)の取り成しによって生命を保つことができた c:1067。斬獲した首級の数を上奏する際、国淵(こくえん)はありのままに報告し、旧来の慣例のように虚偽の誇張をすることはなかった。曹操(そうそう)がその理由を尋ねると、国淵(こくえん)はこう説明した。「外敵を征討する際、斬獲の数を誇張するのは武功を顕彰し、民衆に威嚇を示すためです。しかし河間は我が方の疆域の内にあり、田銀らの叛乱は、たとえ我々が勝利を得たとしても、私はこれを恥と感じるのです。」曹操(そうそう)はこれを聞いて大いに喜び、その後国淵(こくえん)を魏郡太守に抜擢した c:1067。

魏郡に在任中、かつて匿名で書を投じて誹謗する者があり、曹操(そうそう)はこれを深く憎み、書を記した者を突き止めようと決意した。国淵(こくえん)は原本の書を保存しつつ、外に喧伝しないよう請うた。書中には多くの箇所で『二京賦』の内容が引用されていたため、国淵(こくえん)は功曹を召集してこう命じた。「魏郡は地域が広大で、また都に近いが、学問の士は少ない。お前たちは開明で若い士人を何人か選び、彼らを師について学ばせよ。」功曹は三人を選び出し、国淵(こくえん)は彼らの出発に先立って接見し、こう教えた。「お前たちの学んだところはまだ浅い。『二京賦』は博学の書であり、世人の多くがこれを軽んじ、精通する者はほとんどいない。お前たちはこの賦を読み解ける者を訪ね、彼らに教えを請うがよい。」さらに彼はひそかに意図を伝えた。十日も経たぬうちに、『二京賦』を読み解ける者が見つかり、そこでこの三人は彼のもとへ赴いて学んだ。その後、吏員は機に乗じてこの「師」に公文を書かせたところ、その筆跡は書を投じた者と完全に一致した。捕らえて訊問することで、ついに事の真相が明らかとなった c:9436。国淵(こくえん)は後に太僕に昇進し、九卿に列したが、依然として布衣蔬食の質素な生活を保ち、俸禄や賞賜を旧友や故交、宗族の親属に分け与え、恭しく倹約をもって身を律し、ついに在任中に世を去った c:9436。

演中(In the Novel)

『三国演義』においては国淵(こくえん)という人物に対する具体的な文学的造形は行われていない。小説の中で、国淵(こくえん)はほとんど登場せず、いかなる台詞もないため、その演義における形象は空白である c:1067。史書の記載において彼が曹魏(そうぎ)の重要な官員として、屯田・司法・地方統治などの面でいずれも顕著な貢献をした形象と比べると、演義における彼の欠席は、彼が他の歴史上の人物のように、小説の芸術的加工を通じてより広く知られる形象を獲得することを妨げている。これは史書における国淵(こくえん)の「学問に篤く古を好む」「直言して表情は端正」「恭倹をもって身を律す」といった性格上の特徴の詳細な描写とは鮮明な対照をなしている c:9436。

主要な関係

* 曹魏(さんごく)(serves):国淵(こくえん)は曹魏(そうぎ)の重要な官員であり、かつて司空掾属・居府長史・魏郡太守・太僕などの職を務め、曹魏(そうぎ)の屯田・司法・地方統治に突出した貢献をした c:1067。
* 公孫度(こうそんたく)集団(serves):天下が大いに乱れた時期、国淵(こくえん)はかつて邴原(へいげん)・管寧(かんねい)らとともに遼東へ避難し、間接的に公孫度(こうそんたく)集団の統治下に身を置き、現地で講学を行って名声を遠くまで轟かせた c:1067。
* 曹操(そうそう)(advises_in):国淵(こくえん)はたびたび曹操(そうそう)に進言を行い、屯田の方策、河間の叛乱の余党の処置、誹謗の書の摘発などの事柄を含み、その進言の多くは曹操(そうそう)に容れられ、これによって深く曹操(そうそう)の賞識を得た c:1067。
* 鄭玄(ていげん)(student_of):国淵(こくえん)は著名な学者である鄭玄(ていげん)の弟子であり、鄭玄(ていげん)はかつて国淵(こくえん)を「美才」「国器」と高く評価した。師弟関係の深さがうかがえ、また鄭玄(ていげん)が国淵(こくえん)の才能を極めて高く認めていたことがわかる c:1067。

象徴的な場面

* 遼東に講学し、名声が高まる:遼東に避難していた間、国淵(こくえん)は「学問に篤く古を好み、常に山巌に講学し、士人多くこれを推し慕い、これによりて知らる」とあり、学者としての風格と影響力を示した c:1067。
* 屯田を主管し、倉廩が豊実する:国淵(こくえん)は曹操(そうそう)の命を受けて屯田を主管し、「しばしば損益を陳べ、土を相て民を処き、民を計りて吏を置き、功課の法を明らかにし、五年の中に倉廩豊実、百姓競い勧めて業を楽しむ」とあり、食糧問題を成功裏に解決し、民生を安定させた c:1067。
* 河間に取り成し、千人が生を得る:河間の叛乱を平定した後、国淵(こくえん)は首謀者ではない余党のために取り成し、「淵に頼りて生を得る者千余人」とあり、その仁恕の心と生命への尊重を体現した c:1067。
* ありのままに功を報じ、太祖が称賛する:国淵(こくえん)は斬獲した首級を報じる際、ありのままに上奏することを貫き、虚偽の誇張をせず、曹操(そうそう)にその所以を説明し、深く曹操(そうそう)の賞賛を得て、その正直な品格を示した c:1067。
* 巧みな計で案件を究明し、気配を見せない:匿名の誹謗の書に対し、国淵(こくえん)は学子を派遣して『二京賦』を学ばせる方法によって、気配を見せずに書を投じた者を突き止め、その高度な智慧と複雑な事務を処理する能力を示した c:9436。
* 卿位に列し、布衣蔬食:国淵(こくえん)は高位に身を置きながらも、「布衣蔬食、禄賜をこれ旧故宗族に散じ、恭倹をもって身を律す」とあり、その清廉倹約で栄華を慕わぬ崇高な品徳を体現した c:9436。

人間関係

2 件の関係

台詞

  • 史 ch.11 §23

    「此郡旣大,今在都輦,而少學問者。其簡開解年少,欲遣就師。」

登場回1 回 ▸
  • 史ch.11
関係の年表2 条 ▸

史 ch.11

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 昔を振り返れば、私は字を子尼(しじ)といい、楽安郡蓋県の人である。若い頃、鄭玄(ていげん)に学び、先生から「才知に優れている」と評され、国の柱となる人物になれると言われた。この言葉を自らの誇りとするつもりはなく、ただ学んだことの根本を守りた