史書の記載(Historical Record)
(史伝材料なし)
演義の記述(In the Novel)
周倉(しゅうそう)、字は不詳、『三国(さんごく)演義』における虚構の人物であり、正史には記載がない。彼は最初、黄巾軍(こうきんぐん)の将領の身分で登場し、かつて張宝(ちょうほう)の部下であった。張宝が敗れて身を死すと、周倉は山林に啸聚して緑林の好漢となり、臥牛山に盤踞した。彼はかねて関羽(かんう)の盛名を聞き、心に敬仰を抱き、ずっと相見える機会を願っていた。関羽が千里独行し、臥牛山の近くを通りかかったとき、周倉は裴元紹(はいげんしょう)とともに現れた。周倉は関羽を見て激動のあまり、ただちに下馬して拝伏し、関羽に追従したいという強烈な願いを表した。彼はさらに、もし関羽が手下の衆人を受け入れるのが不都合なら、自分は単身で歩いて、関羽に万里追従しても辞さないと述べた。関羽はその誠意に動かされ、最終的に周倉を受け入れた。周倉は関羽のそばで、主に歩卒を務め、鞭を執り鐙に随い、忠心耿耿であった。関羽が兄を尋ねる間、周倉はかつて命を受けて臥牛山へ赴き裴元紹の人馬を募ろうとしたが、思いがけず裴元紹はすでに趙雲(ちょううん)に刺殺され、山寨は占拠されていた。この後、周倉は正式に劉備集団(りゅうびしゅうだん)の一員となり、関平(かんぺい)とともに関羽を輔佐した。
周倉の人物像は演義においては多く勇猛・忠誠をもって示される。彼は力が無尽であるのみならず、両腕に千斤の力を有し、板肋虬髯、容貌は甚だ偉かった。さらに水性をも兼ね備えていた。関羽が荊州(けいしゅう)を鎮守する間、周倉はしばしば関羽に随って出征し、戦場において勇を奮った。とりわけ襄樊の戦いにおいて、彼はその卓越した水性によって、魏将龐徳(ほうとく)を生け捕りにし、関羽の水淹七軍(すいえんしちぐん)に赫々たる戦功を立てた。周倉の関羽への忠誠は極致に達していた。関羽が敗れて麦城(ばくじょう)へ走り、最終的に東呉に害されたのち、周倉は麦城の城頭で関羽父子の首級を見て、悲憤交々、最終的に自刎して主に殉ずる道を選んだ。その死は、その忠義の人物像をさらに強化し、演義における関羽の忠義の精神の有力な引き立てとなった。
主要な関係
* 張宝(仕える):周倉は早期にはかつて黄巾軍の将領であり、張宝の麾下で働いた。(演義独自)
* 黄巾軍(一員):周倉は黄巾軍の一員であり、黄巾の乱において活躍した。(演義独自)
* 関羽(仕える):周倉の生涯で最も主要な関係であり、彼は関羽に忠心耿耿、死を誓って追従し、関羽の有力な助手かつ忠誠な部下であった。
* 劉備集団(一員):周倉は関羽に追従したのち、自然と劉備集団の一員となり、蜀漢(しょくかん)のために働いた。
* 裴元紹(同志):周倉が臥牛山にいたときの仲間であり、両人はともに山林に啸聚し、のちに裴元紹は趙雲に刺殺された。(演義独自)
* 関平(同志):周倉は関平とともに関羽を輔佐し、ともに荊州を鎮守した、関羽のそばの二大将であった。
象徴的な場面
* 臥牛山で初めて関羽に遇い、死を誓って追従する:関羽が千里独行したとき、周倉は臥牛山で関羽に遇った。彼は関羽への限りない敬仰を表し、きわめて大きな誠意をもって単身で歩いて関羽に追従し、たとえ万里でも辞さないと述べた。この場面は周倉の粗莽にして至誠な性格を十分に示し、関羽の忠実な追従者としての人物像をも定めた。
* 単刀赴会(たんとうふかい)で魯粛を怒鳴りつける:関羽が単刀赴会で東呉へ赴いたとき、周倉は従者として、宴席で魯粛(ろしゅく)が荊州の帰属問題に言及するのを聞き、義憤に駆られ、声を厲しくして魯粛を叱責し、関羽の尊厳を守った。この挙動は関羽に喝止されたものの、周倉の関羽への忠誠と擁護の心を示している。
* 水淹七軍で龐徳を生け捕る:襄樊の戦いにおいて、関羽が水淹七軍を行った際、周倉はその卓越した水性によって、洪水の中で魏将龐徳を生け捕りにし、関羽の勝利に大功を立てた。この場面は周倉の勇猛と特殊な技能を示し、その個人の武力の見せ場ともなった。
* 麦城で自刎して主に殉ずる:関羽が敗れて麦城へ走り、最終的に東呉に害された。周倉が麦城の城頭で関羽父子の首級を見たとき、悲痛のあまり、最終的に自刎して主に殉ずる道を選んだ。この場面は周倉の忠義の人物像の最高の体現であり、その生涯に悲壮な句点を打った。
人間関係
5 件の関係
名言
全 10 件の台詞 · 厳選 3 件
「舊隨黃巾張寶時,曾識尊顏;恨失身賊黨,不得相隨。今日幸得拜見。願將軍不棄,收為步卒,早晚執鞭隨鐙,死亦甘心!」
この一句は周倉の関羽への忠誠と付き従う姿を示しており、その人物像の中核をなす。
「倉乃一粗莽之夫,失身為盜;今遇將軍,如重見天日,豈忍復錯過?若以眾人相隨為不便,可令其盡跟裴元紹去。倉隻身步行,跟隨將軍,雖萬里不辭也!」
周倉が死を誓って関羽に付き従う様は、その忠義を際立たせ、古典的な護衛の姿を形作っている。
「天下土地,惟有德者居之。豈獨是汝東吳當有耶?」
この一句は周倉の豪放さと劉備集団の正統性を守る姿勢を体現し、文化的な識別性を備えている。
登場回6 回 ▸
- 演ch.28ch.31ch.63ch.66ch.74ch.77
関係の年表6 条 ▸
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は周倉(しゅうそう)。主君の関将軍(かんしょうぐん)に従って世を渡り歩き、見聞きしたこと、身をもって経験したことは、いつも生死の境目にあった。昔、魯粛(ろしゅく)の宴に赴いたときのことを思い出す。川の上には小舟が一艘あるだけで、赤旗がはた
- 昔、臥牛山(がぎゅうざん)の麓で裴元紹(はいげんしょう)が一騎に刺された後、私は古くからの仲間を率いて誘いに向かったが、連れ帰ることができたのは数十人にすぎなかった。腹立たしく思い、その将と戦ったものの、幾度戦っても敗れ、体に三つの槍傷を負
- 私は周倉(しゅうそう)、関西の人である。昔、黄巾の張宝(ちょうほう)に将として従ったことを思い起こす。やがて張宝が死ぬと、私は賊党に身を落とし、山林に仲間を集めた。今になって思えば、いわゆる緑林とは、帰る場所のない者たちが一か所に集まったに
生涯の大事1 ▸
- 0200-01-01 · 古城古城の再会(こじょうのさいかい)· 武将