言語

楊偉

字 世英

楊偉の肖像
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楊偉(ようい)は曹魏(そうぎ)に属し、曹爽(そうそう)の参軍を務め、駱谷からの蜀討伐撤退を勧め、暦の校定にも関与したと記される。

正史 『三国志』2巻に登場 · 『演義』に登場せず

出典

原典に楊偉が登場する箇所

  • 正史 · 巻 9『三国志』

    …爽參軍楊偉爲爽陳形勢,宜急還,不然將敗。〈《世語》曰:偉字世英,馮翊人。…
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    〈《魏書》曰:爽使弟羲爲表曰:「臣亡父真,奉事三朝,入備冢宰,出爲上將。先帝以臣肺腑遺緒,獎飭拔擢,典兵禁省,進無忠恪積累之行,退無羔羊自公之節。先帝聖體不豫,臣雖奔走,侍疾嘗藥,曾無精誠翼日之應,猥與太尉懿俱受遺詔,且慙且懼,靡所厎告。臣聞虞舜序賢,以稷、契爲先,成湯襃功,以伊、呂爲首,審選博舉,優劣得所,斯誠輔世長民之大經,錄勳報功之令典,自古以來,未之或闕。今臣虛闇,位冠朝首,顧惟越次,中心愧惕,敢竭愚情,陳寫至實。夫天下之達道者三,謂德、爵、齒也。懿本以高明中正,處上司之位,名足鎮衆,義足率下,一也。包懷大略,允文允武,仍立征伐之勳,遐邇歸功,二也。萬里旋斾,親受遺詔,翼亮皇家,內外所向,三也。加之耆艾,紀綱邦國,體練朝政;論德則過於吉甫、樊仲;課功則踰於方叔、召虎:凡此數者,懿實兼之。臣抱空名而處其右,天下之人將謂臣以宗室見私,知進而不知退。陛下岐嶷,克明克類,如有以察臣之言,臣以爲宜以懿爲太傅、大司馬,上昭陛下進賢之明,中顯懿身文武之實,下使愚臣免於謗誚。」於是帝使中書監劉放令孫資爲詔曰:「昔吳漢佐光武,有征定四方之功,爲大司馬,名稱於今。太尉體履正直,功蓋海內,先帝本以前後欲更其位者,輒不彌久,是以遲遲不施行耳。今大將軍薦太尉宜爲大司馬,旣合先帝本旨,又放推讓,進德尚勳,乃欲明賢良、辯等列、順長少也。雖旦、奭之屬,宗師呂望,念在引領以處其下,何以過哉!朕甚嘉焉。朕惟先帝固知君子樂天知命,纖介細疑,不足爲忌,當顧栢人彭亡之文,故用低佪,有意未遂耳!斯亦先帝敬重大臣,恩愛深厚之至也。昔成王建保傅之官,近漢顯宗以鄧禹爲太傅,皆所以優崇儁乂,必有尊也。其以太尉爲太傅。」〉爽弟羲爲中領軍,訓武衞將軍,彥散騎常侍侍講,其餘諸弟皆以列侯侍從,出入禁闥,貴寵莫盛焉。南陽何晏、鄧颺、李勝、沛國丁謐、東平畢軌咸有聲名,進趣於時,明帝以其浮華,皆抑黜之;及爽秉政,乃復進叙,任爲腹心。颺等欲令爽立威名於天下,勸使伐蜀,爽從其言,宣王止之不能禁。正始五年,爽乃西至長安,大發卒六七萬人,從駱穀入。是時,關中及氐、羌轉輸不能供,牛馬騾驢多死,民夷號泣道路。入穀行數百里,賊因山爲固,兵不得進。爽參軍楊偉爲爽陳形勢,宜急還,不然將敗。〈《世語》曰:偉字世英,馮翊人。明帝治宮室,偉諫曰:「今作宮室,斬伐生民墓上松柏,毀壞碑獸石柱,辜及亡人,傷孝子心,不可以爲後世之法則。」〉颺與偉爭於爽前,偉曰:「颺、勝將敗國家事,可斬也。」爽不恱,乃引軍還。〈《漢晉春秋》曰:司馬宣王謂夏侯玄曰:「春秋責大德重,昔武皇帝再入漢中,幾至大敗,君所知也。今興平路勢至險,蜀已先據;若進不獲戰,退見徼絕,覆軍必矣。將何以任其責!」玄懼,言於爽,引軍退。費禕進兵據三嶺以截爽,爽爭嶮苦戰,僅乃得過。所發牛馬運轉者,死失略盡,羌、胡怨歎,而關右悉虛耗矣。〉

  • 正史 · 巻 25『三国志』

    …帝以隆學問優深,於天文又精,乃詔使隆與尚書郎楊偉、太史待詔駱祿參共推校。…
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    建安十八年,太祖召爲丞相軍議掾,後爲歷城侯徽文學,轉爲相。徽遭太祖喪,不哀,反游獵馳騁;隆以義正諫,甚得輔導之節。黃初中,爲堂陽長,以選爲平原王傅。王即尊位,是爲明帝。以隆爲給事中、博士、駙馬都尉。帝初踐阼,羣臣或以爲宜響會,隆曰:「唐、虞有遏密之哀,高宗有不言之思,是以至德雍熈,光于四海。」以爲不宜爲會,帝敬納之。遷陳留太守。犢民酉牧,年七十餘,有至行,舉爲計曹掾;帝嘉之,特除郎中以顯焉。徵隆爲散騎常侍,賜爵關內侯。〈《魏略》曰:太史上漢歷不及天時,因更推步弦望朔晦,爲太和歷。帝以隆學問優深,於天文又精,乃詔使隆與尚書郎楊偉、太史待詔駱祿參共推校。偉、祿是太史,隆故據舊歷更相劾奏,紛紜數歲,偉稱祿得日蝕而月晦不盡,隆不得日蝕而月晦盡,詔從太史。隆所爭雖不得,而遠近猶知其精微也。〉

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ほか 3 件

楊偉、字は世英、馮翊(ひょうよく)の人で、曹魏(そうぎ)の曹爽(そうそう)に仕えた参軍である。『三国志演義』には登場しない。

事績

明帝が宮殿を造営した際、楊偉は諫言し、墓の上の松や柏を伐採し、碑や石柱を壊すことは亡者と孝子の心を傷つけるとして、後世の規範とすべきではないと指摘した。(史書に記載)

正始五年、曹爽が軍を率いて駱谷(らくこく)から蜀を討とうとしたが、軍は進軍を阻まれた。楊偉は曹爽に情勢を説き、速やかに兵を退くよう勧めた。また曹爽の面前で鄧颺(とうよう)と論争し、鄧颺と李勝(りしょう)は国の大事を損なうだろうと述べ、二人を斬るべきだとした。曹爽は不快に思ったが、最終的に軍を率いて引き返した。(史書に記載)

尚書郎を務めたことがあり、詔を奉じて高堂隆(こうどうりゅう)、駱禄(らくろく)とともに暦法の校定にあたった。楊偉と駱禄は太史側に属し、旧暦を支持する高堂隆と数年にわたり互いに弾劾し、奏上した。楊偉は、駱禄の暦法では日食が起きても月末に月が完全に欠けず、高堂隆の暦法では日食が起きないのに月末に月が完全に欠けると主張した。最終的に詔によって太史側の案が採用された。(史書に記載)

関係

  • 曹爽の参軍を務め、曹爽に従って蜀征伐に参加した。進言や論争の相手には鄧颺、李勝が含まれる。
  • 詔を奉じて高堂隆、駱禄とともに暦法の校定にあたり、高堂隆と暦法をめぐって論争した。

人間関係

4 件の関係

楊偉 の人物関係図曹爽李勝鄧颺高堂隆楊偉
  • 君臣
  • 敵対
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曹爽

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曹爽

主君

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正史 · 巻 9

  • 曹爽§54

    主君

    曹爽の参軍

  • 鄧颺§54

    好敵手

    駱谷の戦いで曹爽の前で争い、鄧颺を斬るよう主張した

  • 李勝§54

    好敵手

    李勝が国家を損なうことをしようとしていると述べ、斬るべきだとした

正史 · 巻 25

  • 好敵手

    暦法をめぐって争い、数年にわたり互いに弾劾し合った