史載(Historical Record)
雅丹なる人物については、現存する三国志(さんごくし)などの正史の材料には、明確な記載がない。その生涯・事績・所属陣営および具体的な身分は、いずれも史册に見えない。したがって、史学の観点からは、雅丹は典拠の確かな歴史上の人物ではない。
演中(In the Novel)
羅貫中の歴史小説三国(さんごく)演義においては、雅丹は西羌国の丞相として造形され、西羌国王徹裏吉の重要な謀士である。彼は第九十四回に初めて登場し c:15412、そのとき魏国の使者が金珠と書信を携えて西羌に到着し、援軍を求めた。雅丹丞相がまず魏の使者に接見し、礼物を受け取った。続いて、彼は魏の使者を引いて国王徹裏吉に謁見させ、魏国の救援を求める書信を呈上した。徹裏吉が群臣を召集して協議した際、雅丹は自らの立場を明確に表明し、国王に進言した。「我は魏国と素より往来あり、いま曹都督が救いを求め、かつ和親を許す、理として依允すべし。」 c:15412 徹裏吉は彼の進言を採り入れ、ただちに雅丹と越吉元帥に命じて、共に十五万の羌兵を率いて出征させ、魏国を支援させた。この羌兵は独特の「鉄車兵」で知られ、みな弓弩・鎗刀・蒺藜・飛鎚などの兵器を巧みに使い、鉄葉で釘を裹んだ戦車を備え、駱駝や騾馬に牽かせて、糧草・軍械の運搬に用いた c:15412。
雅丹は軍事行動においてその謀士としての一面を示したが、蜀漢(しょくかん)の統帥諸葛亮(しょかつりょう)の計謀を誤判したために惨敗を招いた。姜維(きょうい)との初めての交戦において、姜維が敗走を装い、羌兵は蜀の寨の前まで追いかけた。越吉元帥が、寨の中が空っぽで、ただ琴を弾く音だけが聞こえるのを訝しんだとき、雅丹はこう断言した。「これは諸葛亮の詭計、いつわりに疑兵を設けたのみ。攻めてよい。」 c:15413 続く追撃の中で、諸葛亮が琴を携えて車に上り、数騎を引いて寨に入り、後ろを望んで去るのを見ても、雅丹はなお「このような兵にたとい伏兵があろうとも、恐るるに足らぬ」と主張し c:15413、大軍に追撃を続けるよう促した。彼は蜀兵が山の後ろから現れたときでさえ、軽んじて「たといこのような小さな伏兵があろうとも、何ぞ恐るるに足らん!」と言った c:15413。まさにこの敵を侮る態度と「いつわりに疑兵を設けた」との誤判が、羌兵を諸葛亮の仕掛けた陥穽に陥らせた。最終的に、羌兵は坑塹に転落し、鉄車兵は自相に踏み合い、退路は張苞(ちょうほう)・関興(かんこう)・姜維・馬岱(ばたい)・張翼(ちょうよく)ら多路の蜀軍に断たれ、越吉元帥は関興に斬られ、雅丹丞相は馬岱に生け捕られた c:15413。
捕らえられた後、雅丹は諸葛亮の寛大な扱いを受けた。諸葛亮は彼の縛めを解いただけでなく、酒を賜って驚きをしずめ、さらに善き言葉で慰撫した c:15413。諸葛亮は雅丹に、蜀漢と西羌は隣邦として永く盟好を結ぶべき道理を説き明かし、雅丹およびすべての捕虜となった羌兵・車馬・器械を釈放し、本国へ帰らせた。雅丹は諸葛亮の恩徳に深く感じ入り、拝謝して去った c:15413。この筋立ても、史書には同じく記載がなく、諸葛亮の「攻心を上となす」形象を造形するために三国演義が行った文学的創作である。
重要な関係
* 西羌国王徹裏吉(演義独自):雅丹は西羌の丞相として、徹裏吉国王の重要な謀士であり軍事指揮官である。彼は国王に進言して、西羌が出兵して魏国を援助する決定を促し、越吉元帥とともに兵を率いて出征した c:15412。
* 越吉元帥(演義独自):雅丹の軍事上の相棒で、共に西羌十五万の大軍を率いた。戦陣において、雅丹の判断はしばしば越吉の行動に影響を与え、越吉は時に疑念を抱きながらも、最終的にはなお雅丹の進言に従った c:15413。
* 魏国(演義独自):雅丹は魏国と素より往来があり、この関係に基づいて、西羌が出兵して魏国を援助し、蜀漢に対抗することを力説した c:15412。
* 諸葛亮(演義独自):雅丹の軍事上の敵手であり、雅丹は諸葛亮の計謀を誤判したために大敗して捕らえられた。しかし、諸葛亮は彼に寛大な政策を施して釈放し、彼にその徳を深く感じさせた c:15413。
象徴的な場面
* 援魏を力説し兵を率いて出征(演義独自):魏の使者が救援を求めた際、雅丹丞相は「我は魏国と素より往来あり、いま曹都督が救いを求め、かつ和親を許す、理として依允すべし」 c:15412 との理由で、徹裏吉国王を説得して出兵させることに成功し、越吉元帥とともに、独特の「鉄車兵」を含む十五万の羌兵を率いて、まっすぐ西平関に迫り、西羌の政治・軍事における重要な地位を示した。
* 「いつわりの疑兵」を信じて大敗し捕らわれる(演義独自):蜀軍との交戦において、姜維の偽りの退却と蜀寨の空虚を前に、雅丹は軽率にも「これは諸葛亮の詭計、いつわりに疑兵を設けたのみ。攻めてよい」と判断した c:15413。追撃の過程でさえ、彼はなお「このような兵にたとい伏兵があろうとも、恐るるに足らぬ」と主張し c:15413、最終的に羌兵を諸葛亮の仕掛けた陥穽に陥らせ、全軍が潰敗し、雅丹自身も馬岱に生け捕られた c:15413。この場面は、雅丹の軍事判断の誤りとその敵を侮る性格を深く明らかにしている。
* 諸葛亮に釈放されその徳に感じる(演義独自):捕らえられた後、雅丹は厳罰を受けるどころか、かえって諸葛亮の寛厚な扱いを受けた。諸葛亮は彼の縛めを解き、酒を賜って驚きをしずめ、さらに善き言葉で慰撫し、捕虜となったすべての羌兵と物資を釈放した c:15413。雅丹はこれによって「深くその徳に感じ」、この場面は諸葛亮の「攻心を上となす」策略を示すとともに、雅丹の人物像の中でも比較的穏やかな一面となっている。
人間関係
2 件の関係
敵対1
その他1
名言
全 4 件の台詞 · 厳選 2 件
「我與魏國素相往來,今曹都督求救,且許和親,理合依允。」
この一句は雅丹が魏国と親交を結ぶ様を示しており、その後の展開への伏線となっている。
「此諸葛亮詭計,虛設疑兵耳。可以攻之。」
この一句は雅丹が諸葛亮(しょかつりょう)の計略を見誤る様を体現しており、その人物の性格の重要な表れである。
登場回1 回 ▸
- 演ch.94
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は雅丹(がたん)。丞相の位に身を置き、徹裏吉(てつりき)を補佐していた。日頃考えていたのは、国同士の往来や、君命の利害にすぎなかった。曹操(そうそう)が政を執って以来、我が羌は毎年貢ぎ物を納めていた。魏の使者が金珠と書状を携えて訪れ、曹都