戦略的背景
蜀漢(しょくかん)の景元四年(263)に鄧艾(とうがい)が蜀を滅ぼし、咸熙二年(265)に司馬炎(しばえん)が魏を簒奪して晋を建てて以来、天下は晋強・呉弱という二極構造に固まっていた。孫呉(そんご)は陸抗(りくこう)の死後、国力が内側から消耗していく一方だった——孫皓(そん こう)の暴虐、朝綱の退廃、長江中流の西陵(せいりょう)防衛線を支えるべき柱石の不在。晋朝は一方で、羊祜(ようこ)が荊州(けいしゅう)を十年間守り、王濬(おうしゅん)が益州(えきしゅう)で七年間にわたって軍船を建造するという二正面の準備を整え、対呉戦争に必要なあらゆる物資と情報を蓄積し終えていた。開戦の政治的好機は咸寧五年(279)冬に訪れた——賈充(かじゅう)ら保守派の反対は、張華(ちょうか)・杜預(とよ)ら主戦派が「軍の勢いはすでに整った。発せずばやがて腐る」と押し切った。晋軍六路・二十余万の兵と数万艘の軍船という規模は、この戦争が一度で全戦線を制圧し、余地を残さない戦略的殲滅として設計されたことを示している。
両軍の配置
晋方の配置は長江に沿って西から東へと連なる。王濬・唐彬(とうひん)が益州水軍を率いて下流へ向かう。これが戦略全体の「突き刺す刃」である。杜預は江陵(こうりょう)へ出て荊州中枢を押さえ、胡奮(こふん)は夏口(かこう)へ、王戎(おうじゅう)は武昌(ぶしょう)へ出て水軍を援護しつつ荊州と揚州の横の連絡を断ち、王渾(おうこん)・周浚は牛渚へ、司馬伷(しばちゅう)は涂中へと進み、この二路が建業(けんぎょう)の北翼を制圧する。賈充は大都督として中央で全軍を統括する。呉方は慌ただしく対応し、丞相の張悌(ちょうてい)が配置を担った。車騎将軍・伍延(ごえん)は江陵で杜預を迎え撃ち、驃騎将軍・孫歆(そん きん)は夏口で胡奋を防ぐ。張悌自身は左将軍・沈瑩(しんえい)と右将軍・諸葛靚(しょかつせい)を率いて十万の兵とともに牛渚に出陣し、各路の軍を支援する手はずだった。「丞相みずから前線に出る」というこの配置は、孫皓朝廷に使える宿将がもはや一人もいなかったことを物語っている。呉方が最後の望みをかけたのは長江そのものだった——寵臣の岑昏(しんこん)の献策により、鉄鎖と鉄錐を長江に沿って張り巡らせ、晋の水軍を江西に食い止めようとした。
転換点となった決断
第一の決断は開戦の時機である。晋の武帝は賈充の繰り返す諫言を退け、張華・杜預の意見を容れ、「聖武にして国富み民強し、呉主は淫虐にして民は憂い国は疲弊す」を理由として開戦を命じた。第二の決断は王濬水軍の迅速な突破である。王濬は大型筏を先行させて鉄錐を試し、松明で鉄鎖を焼き断って、長江中流で呉軍の防衛線を連続して突破し、戦争の主軸を陸上推進から水陸並進へと作り変えた。第三の決断は杜預が江陵を抜いた後、ただちに南へ進んだことである。杜預は態勢を整えるのを待たず水陸並進で武昌へ向かい、呉軍が収縮して立て直す猶予を与えなかった。第四の決断は呉方が「丞相を前線へ」という捨て身の一手を打ったことである。張悌の部隊は牛渚付近で王渾・周浚に撃ち破られ、沈瑩は戦死、張悌も陣没した。呉方は最後の野戦兵団を失った。その後、王濬の水軍が建業城下に至ると、孫皓は白馬(はくば)に乗り縄に縛られ棺を抱いて降伏した。
結果と余波
第一に、呉が滅び三国の晋への帰一(さんごくのしんへのきいつ)が達成され、黄巾の乱(184)以来ほぼ百年にわたった分裂が正式に終結した。「全国を動員して一挙に統一を果たした」数少ない事例の一つである。第二に、呉の滅亡直後、晋の武帝は州郡の兵を廃止し、戸調式と占田制を実施して、「承平」を基調に社会を再建しようとした。しかしこの設計は二十年後に八王の乱によって踏み砕かれ、「軍事的統一が政治的統合の不足を覆い隠していた」という欠陥を露わにした。第三に、王濬が異例の速さで建業に到達したことから、王渾との功績争いが西晋初年の朝廷における最初の大型政治案件となり、滅呉の将帥たちの派閥的亀裂を浮き彫りにするとともに、西晋の中央集権能力の内的限界を予示した。第四に、孫皓は洛陽(らくよう)へ送られ、「このような席はとうに汝のために用意してあった」という伝説の対話が史書に残り、後世が亡国の君と降伏した君主の気骨を論じる際に繰り返し引かれる事例となった。
反実仮想の推論
咸寧五年に賈充ら保守派が開戦を阻止して「時を待って再び発す」として一年か二年先延ばしにしていたなら、晋の造船・兵糧備蓄の優位はさらに拡大していただろう。しかし呉方がその一二年のうちに陸抗のような統帥——たとえば陸抗の子、陸機(りくき)・陸雲(りくうん)の若き時期のような存在——を得ていたならば、長江中流の防衛線は再建できたかもしれない。それが呉方に残されていた唯一の逆転の機だった。もう一つの反実仮想は、咸寧五年冬の時点で呉方がただちに江陵を捨て、兵力を建業へ収縮させて守りを固めるというものである。王濬が数千里を遠征してくる疲弊した師を基軸に消耗戦を狙えば、長江の水文と晋軍の後方補給を考えると、春の増水期に戦争を引き込んで晋軍の損耗と不確定要素を増やせた可能性がある。歴史は張悌の死戦と孫皓の降伏という最も速い崩壊の経路を選び、「統一」を徹底的かつ急速に完成させた。それはまた西晋の短命のための最初の種を蒔いた出来事でもあった。
