史載(Historical Record)
許儀(きょぎ)は、字は不詳、三国(さんごく)時代の曹魏(そうぎ)の名将・許褚(きょちょ)の子である。許褚(きょちょ)はその慎み深く法を奉じ、質実重厚で寡黙な性格、および曹操(そうそう)への忠誠で知られ、中堅将軍、武衛将軍を歴任し、中軍の宿衛禁兵を都督して、曹操(そうそう)と曹丕(そうひ)の信任と重用を深く受けた。曹操(そうそう)が死去した際、許褚(きょちょ)は号泣して血を吐くほどであり、その忠心がうかがえる。曹丕(そうひ)が即位すると、許褚(きょちょ)は万歳亭侯に封じられた。明帝の時代には、さらに牟郷侯に進封され、その子の一人に関内侯の爵位を賜った。許褚(きょちょ)の死後、諡号を壮侯といい、その子・許儀(きょぎ)が爵位を継承した。許儀(きょぎ)の兄・許定もまた、軍功により振威将軍に封じられ、徼道虎賁を都督した。太和年間、魏の明帝・曹叡(そうえい)は許褚(きょちょ)の忠孝を感じ入り、特に詔を下して褒め称え、再び許褚(きょちょ)の子孫二人に関内侯の爵位を賜った。しかし、史書の記載によれば、許儀(きょぎ)は最終的に鍾会(しょうかい)に殺された。泰始の初年、許儀(きょぎ)の子・許綜が爵位を継いだ。
演中(In the Novel)
『三国演義』において、許儀(きょぎ)の人物像にはより多くの劇的な色彩が与えられており、とりわけ鍾会(しょうかい)が蜀を伐つ戦役において重要な役割を演じている。彼は父・許褚(きょちょ)の「虎将」の風を受け継いだ将領として描かれ、鍾会(しょうかい)が諸将を召集して先鋒の人選を協議した際、許儀(きょぎ)は自ら進んで願い出て「某願わくは往かん」と高らかに呼ばわった。鍾会(しょうかい)は彼が許褚(きょちょ)の子であり、また諸将も一致して推挙したのを見て、彼を先鋒に任命し、先鋒の印を授け、五千の馬軍と一千の歩軍を与え、中路から斜谷を出て、まっすぐ漢中(かんちゅう)を取るよう命じた。鍾会(しょうかい)は特に、沿道の多くが険しい山道であることから、許儀(きょぎ)は道を平らにし、橋を修理し、山を切り石を砕いて、行軍が滞りなく進むことを必ず保証せねばならず、さもなくば軍法によって処分すると強調した。
許儀(きょぎ)は命を受けると、一番手柄を立てることに焦り、軍を率いてまっすぐ南鄭(なんてい)関へと向かった。彼はこの関を奪い取りさえすれば漢中(かんちゅう)に入れると考え、部将に力を尽くして関を奪うよう命じた。しかし、関を守る蜀将・盧遜はあらかじめ備えており、関前の木橋の左右に軍士を伏せ、諸葛武侯が遺した十矢の連弩を据えつけていた。許儀(きょぎ)の部隊が突撃すると、蜀軍は万箭を一斉に放ち、魏兵は大敗して、数十騎が射倒された。許儀(きょぎ)はやむなく撤退し、鍾会(しょうかい)に戦況を報告した。
鍾会(しょうかい)が自ら百余騎を率いて見に来ると、案の定、彼もまた弩の攻撃を受けた。彼が橋を渡って撤退する際、橋面が崩れ落ち、馬の蹄が挟まって、危うく落馬しそうになった。幸い部将の荀愷が間に合って追撃する盧遜を射殺したため、鍾会(しょうかい)はようやく難を逃れることができた。鍾会(しょうかい)はこれにより怒り心頭に発し、許儀(きょぎ)を召し出して、先鋒の職責を全うせず、橋梁や道路を修理しなかったために、自らが危うく命を落としかけたことを厳しく叱責した。彼は許儀(きょぎ)が軍令に背いたのであり、軍法に照らして処分すべきだと考え、これを引き出して斬首するよう命じた。諸将は許褚(きょちょ)が朝廷に功があることを理由に助命を願ったが、鍾会(しょうかい)は軍法は廃すべからずと固持し、最終的に許儀(きょぎ)を斬首して衆に示し、諸将を慄然とさせた。この筋立ては史書には記載がなく、『三国演義』が鍾会(しょうかい)の厳正な軍紀の人物像を造形するために虚構したものである。
重要な関係
* 許褚(きょちょ)(kin_of):許儀(きょぎ)は曹魏(そうぎ)の名将・許褚(きょちょ)の子である。『三国演義』では、許儀(きょぎ)は父の「虎将」の風を受け継いだ将領とされ、先鋒に任じられる際にも、諸将はその父の名ゆえに彼を推挙した。
* 鍾会(しょうかい)(serves):許儀(きょぎ)は鍾会(しょうかい)が蜀を伐つ間、先鋒を務めた。彼は直接鍾会(しょうかい)の命を受け、最終的には鍾会(しょうかい)が言いつけた橋を修め道を敷く任務を果たせず、しかも鍾会(しょうかい)を危うく危険に陥れたために、鍾会(しょうかい)に斬殺された(演義独自)。
* 盧遜(敵対者):『三国演義』において、盧遜は南鄭(なんてい)関を守る蜀将であり、巧みに伏兵を設けて、許儀(きょぎ)の先鋒部隊を打ち破った(演義独自)。
* 荀愷(間接的な関係):『三国演義』において、荀愷は鍾会(しょうかい)が危うく橋から落ちて盧遜に追い斬られそうになった際、間に合って盧遜を射殺し、鍾会(しょうかい)の命を救った。鍾会(しょうかい)はこれにより荀愷に重く報い、これを理由としていっそう許儀(きょぎ)を斬る決意を固めた(演義独自)。
象徴的な場面
* 自ら先鋒を願い出て、一番手柄を立てることに焦る:『三国演義』において、鍾会(しょうかい)が諸将を召集して蜀を伐つ先鋒の人選を協議した際、許儀(きょぎ)は「応声して曰く『某願わくは往かん』」。この場面は功名を立てることに焦る彼の性格を示すとともに、後の悲劇への伏線を張った(演義独自)。
* 南鄭(なんてい)関での攻略失敗、橋の修理不備で斬られる:許儀(きょぎ)は軍を率いて南鄭(なんてい)関に到達し、関を奪うことに焦ったが、蜀将・盧遜の伏撃に遭い、大敗して帰った。続いて、鍾会(しょうかい)が自ら戦場に臨み、橋を渡る際に橋梁の修理不備のために危うく落馬しかけた。鍾会(しょうかい)はこれにより大いに怒り、許儀(きょぎ)が先鋒として橋を修め道を敷く職責を全うしなかったと考え、ついに諸将の助命の願いをも顧みず、彼を斬首して衆に示した。この場面は許儀(きょぎ)が『三国演義』において最も代表的な筋立てであり、その悲劇的な運命を深く刻みつけるとともに、鍾会(しょうかい)の厳酷な軍法を際立たせている(演義独自)。
* 鍾会(しょうかい)に殺される:史書の記載によれば、許儀(きょぎ)は最終的に鍾会(しょうかい)に殺された。史書は具体的な理由や経過を詳しく記していないが、この結末は『三国演義』における許儀(きょぎ)が職務怠慢によって斬られる筋立てと呼応しており、ただ演義がそれを劇的に脚色し、細部を補ったにすぎない。
人間関係
5 件の関係
台詞
- 演 ch.116 §2→ 鍾会(しょうかい)
「某願往。」
- 演 ch.116 §6
「過此關即漢中矣。關上不多人馬,我等便可奮力搶關。」
登場回3 回 ▸
- 史ch.18ch.28
- 演ch.116
関係の年表3 条 ▸
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は許儀(きょぎ)。父の仲康(ちゅうこう)の名を受け継ぎ、その俸禄をいただいている。父は慎み深く法を守り、重厚で口数が少ないことで知られていた。かつて曹仁(そうじん)がわざわざへりくだって招き、室内で話をしようとしたことがあったが、父は「王