背景
223年の蜀漢(しょくかん)は、かろうじて動き続ける機械だった。前年の夷陵(いりょう)での惨敗は、劉備(りゅうび)が三十年をかけて自ら経営してきた東征軍の元手を吹き飛ばし、黄権(こうけん)の魏への降伏、馬良(ばりょう)の戦死、鎮南将軍・張飛(ちょうひ)の暗殺によって軍政の骨幹は深刻な欠員状態にあった。荊州(けいしゅう)が219年に陥落した後、蜀漢の人材と税源はさらに益州(えきしゅう)本地と南中(なんちゅう)辺境の間に集中していた。劉備自身は永安(えいあん)で一年をかけて病状が悪化し、動員できる政治的資本のほぼすべてが呉との講和準備に消耗されていた。この「残局からの再起」という文脈の中で、太子・劉禅(りゅう ぜん)の即位は新朝の開幕というより、危機の過渡期というべきものだった。
主要人物
名義上の中心は十七歳の劉禅である。彼には軍功もなく、劉備のような「創業者の気概」もなかったが、先帝によって意図的に「丞相と一体の存在」として形成されていた――「父事丞相(丞相を父のように섬겨よ)」の四文字は、托孤の詔書の中で最も制度的意味を持つ一句である。諸葛亮(しょかつりょう)は遺命を受けた丞相・益州牧を兼領し、府を開いて政務を執ることで、事実上すべての日常的決定権を引き受けた。第二の遺命大臣・李厳(りげん)は中都護・内外軍事を統べる職を授かり、永安に留守として駐屯した。これは長江上流を鎮守し孫呉(そんご)の翻意に備えるものであり、同時に成都(せいと)に対する暗黙的な牽制でもあった。皇太后の吴氏(呉懿(ごい)の妹)と追尊された昭烈皇后・甘氏が新帝の身分における母系的合法性の根拠をなし、糜夫人(びふじん)は早歿(早歿)していたものの、荊州元従の象徴として祭祀に列せられ、旧部への安撫を表した。
核心的議題
この即位の核心的議題は「誰が即位するか」ではなく、「いかに権力を分配すれば蜀漢が持ちこたえられるか」であった。劉備の構想は二本立てだった。行政と外交を諸葛亮に委ね、軍事と辺防を李厳に委ね、二者の上にはただ幼い主君が国家を象徴するのみとする。この体制は表面上は「二相制」に見えるが、実質的には決策の中枢を成都の諸葛亮側に残すものだった――府を開くことは丞相幕府それ自体が独立した行政体系であることを意味し、李厳が受けた「中都護」は外軍を掌るとはいえ永安に釘付けにされた。新帝はただちに詔を下し、外交・内政・人事をすべて諸葛亮に委ねることを宣言し、この傾斜を正式に確認した。
政治的後果
即位した年から翌年にかけて、諸葛亮は鄧芝(とうし)を江東に遣わして呉蜀の盟約を再締結させ、蜀漢を腹背を敵に囲まれる最悪の状況から脱却させた。225年春には自ら大軍を率いて南征し、三月に出兵して秋には南中を平定、蜀漢の財税基盤を単一の益州から南中の金・銀・丹・漆・耕牛・戦馬にまで拡大した。227年には『出師表』を奉じて北の漢中(かんちゅう)に駐屯し、227年から234年にかけての五度の北伐はすべて、この即位の際に定まった「軍政を相府に集権する」格局の上に立脚していた。一方、李厳集団は継続的に弱体化された。彼はまず江州(こうしゅう)都督に転任させられ、さらに西への移動を強いられ、最終的には231年に督運の失態を理由に庶人に廃された。223年五月のこの即位は、改元して建興とするだけでなく、その後十一年間の蜀漢の運営規則を一度に書き定めたと言える。
反実仮想
もし劉備が「父事丞相」という極端な托孤を採らず、幼い主君に実際に親政させ、数人の遺命大臣が合議する形を取っていたとしたら、蜀漢は224年の呉蜀再同盟と南中の後処理という二件を巡って何度も紛糾していた可能性が高い――どちらか一項の遅延でも、蜀漢をより深い内紛に引きずり込むには十分だった。逆に、李厳に授けられたのが「永安留守」ではなく「尚書事に参録・丞相と連署」であったとすれば、蜀漢の「二相制」が真に実現し、諸葛亮の独相という局面は生じなかったかもしれない。しかしそれは北伐のような高度な集権を必要とする長期戦略の始動を困難にし、蜀漢の対外姿勢はより守勢に傾いたであろう。結果から見れば、劉禅が「制度化された皇帝」として機能したことが、この権力体制が四十年安定して動き続けた鍵だった――彼は諸葛亮の体系を破壊せず、諸葛亮の死後もただちに外戚や権臣に転覆させられることなかった。この「低存在感の安定」こそ、223年五月の即位が最も過小評価されている政治的達成である。
