言語
倉

曹魏(そうぎ) · 敦煌太守

倉慈(そうじ)

登場回
1
台詞の記録
0
人間関係
2
内面の独白
1

史載(Historical Record)

倉慈(そうじ)、字は孝仁、淮南の人である c:86。早年にはかつて郡吏を務めた。建安年間、曹操(そうそう)が淮南地方で屯田を募り開いた際、倉慈を綏集都尉に任じ、民衆を慰撫し集結させる任に当たらせた c:86。

黄初の末年、倉慈は長安(ちょうあん)令に任ぜられた。在任中、彼は清廉節約にして事を処すること有方なことで知られ、当地の官吏と民は彼を畏れつつも敬愛した c:86。

太和年間、倉慈は敦煌(とんこう)太守に昇進した。敦煌郡は西の辺陲に位置し、戦乱による隔絶のため、二十年にわたって太守による統治がなく、当地の大姓豪強の勢力が膨張し、一種の固陋な風気を形成していた。前任の太守である尹奉(いんほう)らも、ただ旧制を踏襲するのみで、匡正改革することができなかった c:86。

倉慈は着任すると、ただちに整頓に着手した。彼は果断にあの権勢ある豪強を抑え、同時に貧弱な民衆を慰撫し、その施政方針はきわめて妥当であった。当時、旧来の大族は大量の田地を占有していたが、小民には立錐の地もなかった。倉慈はこれに対して措置を講じ、人口の多寡に応じて、豪強の余剰の田地を割き分かち、徐々に小民にその本来の価値を支払わせた c:86。

これ以前、属県の獄訟の案件は繁多で、県級の官員は裁決できず、大量の案件が郡治のもとに積み残されていた。倉慈は自ら出向いて審閲し、案件の軽重を選別した。あの罪大悪極の案件を除いては、彼はおおむね鞭杖を施すのみで犯人を遣り返した。彼が治めた一年の間に、判決した刑案はわずか十件にも満たなかった c:86。

さらに、当時の西域の諸族の胡人はしばしば来て進貢することを望んだが、多くの豪族がその間で妨害し、その途を断っていた。たとえ胡人が貿易を行えても、しばしば欺かれ侮られ、公平な取引を得がたく、それゆえ胡人はつねに怨みを抱いていた。倉慈はこれに対して慰撫を行った。あの洛陽(らくよう)へ赴くことを望む胡人には、彼は通行証を発給し、あの郡から帰ることを望む胡人には、官府が公平に彼らの貨物を買い取り、府庫の物品をもって彼らと取引し、同時に官吏と民を遣わして彼らを路上で護送させた。それゆえ、当地の民と胡人はみな一様に彼の徳政と恩恵を称えた c:86。

数年後、倉慈は任地で没した。官吏と民はみな悲痛のあまり、肉親を失ったかのようであった。彼らは倉慈の画像を描いて、彼への思慕を託した。西域の胡人は倉慈の死を知ると、みな戊己校尉と長吏の治所に集まって哀を発し、なかには刀で自らの顔を傷つけて、その赤誠の心を明らかにする者もあり、また彼のために祠を立てて、遥かにこれを祭った c:86。

『魏略』は次のように記す。天水の人である王迁が倉慈に代わって太守となり、その施政方針を踏襲したものの、その水準には及ばなかった。金城の人である趙基が王迁の後を継いだが、また王迁に及ばなかった。嘉平年間に至って、安定の人である皇甫隆が趙基に代わって太守となった。当初、敦煌地方の人々は耕作が巧みでなく、しばしば土地をきわめて湿るまで灌漑してから耕作した。彼らはまた耬犁の用い方を知らず、水を用い種を播く際に、人畜の労力の消耗は大きかったが、収穫は少なかった。皇甫隆は着任すると、彼らに耬犁の作り方と用い方を教え、また衍溉のやり方を教えた。年の終わりに集計すると、節約された労力は半ばを超え、穀物の収量は五割増えた。さらに、敦煌地方の婦女は裙を作る際、裾を羊腸のように巻き縮め、一匹の布を要した。皇甫隆はこの習俗をも禁じて改めさせ、節約された布もまた多かった。それゆえ、敦煌の人々は、皇甫隆の剛毅果断は倉慈に及ばないが、勤勉にして民を愛し、下層の民衆のために利を興す点においては、倉慈に比肩しうると考えた c:86。

演中(In the Novel)

現在のところ調べうる『三国演義』などの文学作品において、倉慈というこの人物に独立した文学的造形は施されていない。したがって、演義において、倉慈には付加的な筋書きや性格的特徴が与えられておらず、その形象と事跡は史書の記載と一致し、逸脱は見られない。演義はまた、彼と曹操あるいは尹奉との具体的な関わりの細部にも言及しておらず、おもにその敦煌における政績に集中している c:86。

主要な関係

* 曹魏(そうぎ):倉慈は曹魏政権の重要な官員であり、その生涯はすべて曹魏のために尽くされ、郡吏から綏集都尉、さらに長安令と敦煌太守に至るまで、いずれも曹魏の統治のもとで職責を履行した c:86。
* 曹操(そうそう):建安年間、曹操が淮南で屯田を募り開いた際、倉慈を綏集都尉に任じた。これは、倉慈の早期の仕途が曹操の認可と抜擢を得たことを示している c:86。
* 尹奉(いんほう):尹奉は倉慈の前任の敦煌太守である。史書は尹奉が在任時に「故に循うのみにして、匡革するところなし」と記し、倉慈が着任後に「権右を抑挫し、貧羸を撫恤す」という積極的な改革を行ったことと鮮明な対比をなしている。したがって、尹奉は倉慈の施政理念と実際の作為における「対抗者」あるいは「反面教師」である c:86。

象徴的な場面

倉慈の象徴的な場面は、疑いなく敦煌太守の任における統治の実践である。その中でも、彼の「清約にして有方」「民を恤む」「戎を和す」という性格を最もよく体現するのは、豪族の田地を割き分かち、西域の胡人を慰撫した措置にほかならない c:86。

敦煌において、「大姓雄張、遂に以て俗と為す」という社会の現状に直面して、倉慈は妥協を選ばず、「権右を抑挫し」、豪族の余剰の田地を貧苦の小民に「口に随いて割賦し」、小民にその本直を支払わせ、土地兼併の問題を解決すると同時に公平性をも兼ね顧みて、その果断かつ策略ある統治能力を示した c:86。

同時に、彼の西域の胡人への慰撫政策もきわめて代表的である。豪族による胡人貿易の妨害と欺瞞に直面して、倉慈は彼らを「労う」のみならず、彼らに通行の便宜を提供し、官府が前面に出て公平に取引し、人を遣わして護送した。この一連の措置によって「民夷翕然としてその徳恵を称し」、最終的に彼の没後、西域の胡人は「悉く共に戊己校尉および長吏の治下に会聚して哀を発し、あるいは刀をもって面を画き、以て血誠を明らかにし、また為に祠を立て、遥かに共にこれを祠る」に至った c:86。この民族と地域を越えた深切な哀悼は、倉慈の民族関係を処理する卓越した才能と深遠な影響を十分に証明し、その生涯において最も感動的かつ象徴的な意味を持つ場面となっている。

人間関係

2 件の関係

登場回1 回 ▸
  • 史ch.16
関係の年表2 条 ▸

史 ch.16

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は字を孝仁(Xiaoren)といい、淮南(Huainan)の人である。昔、郡吏となったばかりの頃を思い返す。その後、太祖(Taizu)が淮南で民を募って屯田を行わせ、私は綏集(Suiji)都尉に任じられた。黄初(Huangchu)末年には
生涯の大事1 ▸