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孫呉

張嬰

張嬰の肖像
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張嬰(チョウエイ)は呉の将で、王崇とともに軍勢を率いて魏に降った。

正史 『三国志』巻15 · 『演義』に登場せず

出典

原典に張嬰が登場する箇所

  • 正史 · 巻 15『三国志』

    吳將張婴、王崇率眾降。太和二年,帝使逵督前將軍满宠、東莞太守胡質等四軍,從西陽直向東關,曹休從皖,司馬宣王從江陵。…
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    吳將張婴、王崇率眾降。太和二年,帝使逵督前將軍满宠、東莞太守胡質等四軍,從西陽直向東關,曹休從皖,司馬宣王從江陵。逵至五將山,休更表贼有请降者,求深入应之。詔宣王驻軍,逵東與休合進。逵度贼無東關之備,必並軍於皖;休深入與贼戰,必敗。乃部署諸將,水陆並進,行二百里,得生贼,言休戰敗,权遣兵断夹石。諸將不知所出,或欲待後軍。逵曰:「休兵敗於外,路絕於内,進不能戰,退不得還,安危之機,不及終日。贼以軍無後继,故至此;今疾進,出其不意,此所謂先人以奪其心也,贼見吾兵必走。若待後軍,贼已断險,兵雖多何益!」乃兼道進軍,多設旗鼓爲疑兵,贼見逵軍,遂退。逵据夹石,以兵粮给休,休軍乃振。初,逵與休不善。黄初中,文帝欲假逵节,休曰:「逵性刚,素侮易諸將,不可爲督。」帝乃止。及夹石之敗,微逵,休軍幾無救也。〈《魏略》曰:休怨逵進迟,乃呵责逵,遂使主者敕豫州刺史往拾棄仗。逵恃心直,謂休曰:「本爲國家作豫州刺史,不来相爲拾棄仗也。」乃引軍還。遂與休更相表奏,朝廷雖知逵直,猶以休爲宗室任重,两無所非也。魏書云:休猶挟前意,欲以後期罪逵,逵終無言,時人益以此多逵。習凿齒曰:夫賢人者,外身虚己,内以下物,嫌忌之名,何由而生乎?有嫌忌之名者,必與物爲對,存胜負於己身者也。若以其私憾敗國殄民,彼雖倾覆,於我何利?我苟無利,乘之曷爲?以是稱说,臧获之心耳。今忍其私忿而急彼之憂,冒難犯危而免之於害,使功显於明君,惠施於百姓,身登於君子之涂,義愧於敌人之心,雖豺虎猶將不觉所復,而况於曹休乎?然則济彼之危,所以成我之胜,不计宿憾,所以服彼之心,公義既成,私利亦弘,可謂善爭矣。在於未能忘胜之流,不由於此而能济胜者,未之有也。〉

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張嬰(チャン・イン)は呉の将軍で、兵を率いて曹魏(そうぎ)に降った。『演義』にはこの人物の記述はない。

事績

  • 史書によると、呉の将軍・張嬰と王崇(ワン・チョン)は兵を率いて曹魏(そうぎ)に降った。

関係

  • 王崇とともに兵を率いて魏に降った。
孫呉

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孫呉

所属勢力

孫呉(そんご)は三国(さんごく)時代に江東を領有した政権である。孫策(そん さく)は軍を率いて浙江を渡り、会稽(かいけい)を攻略して現地の勢力を平定した。その後、自ら会稽太守を兼ね、官吏を任命して呉郡・丹楊・豫章郡(よしょうぐん)および分置された廬陵郡を治めさせ、江東における孫氏の支配を拡大した。孫権(そん けん)は江東を領有し、かつて劉備(りゅうび)と協力して曹操(そうそう)に抵抗した。黄龍元年(229)、孫権は南郊で皇帝に即位し、父の孫堅(そん けん)を武烈皇帝、兄の孫策を長沙(ちょうさ)桓王と追尊し、孫登(そん とう)を皇太子に立てた。孫権の死後、孫亮(そん りょう)が跡を継いだ。孫亮の廃位(そんりょうのはいい)後、孫休(そん きゅう)が迎えられて即位し、孫休の死後、孫皓(そん こう)が迎えられて帝位に就いた。孫皓の即位(そんこうのそくい)後、元興と改元し、父の孫和(そん か)を文皇帝と追尊した。

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