孫呉
張詠
張詠(ちょうよう)は東呉の湘東太守で、天璽元年、算緡を納めず斬首された。
出典
原典に張詠が登場する箇所
正史 · 巻 48『三国志』
…會稽太守車浚、湘東太守張詠不出筭緡,就在所斬之,徇首諸郡。〈《江表傳》曰:浚在公清忠,值郡荒旱,民無資糧,表求振貸。…
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天璽元年,吳郡言臨平湖自漢末草穢壅塞,今更開通。長老相傳,此湖塞,天下亂,此湖開,天下平。又於湖邊得石函,中有小石,青白色,長四寸,廣二寸餘,刻上作皇帝字,於是改年,大赦。會稽太守車浚、湘東太守張詠不出筭緡,就在所斬之,徇首諸郡。〈《江表傳》曰:浚在公清忠,值郡荒旱,民無資糧,表求振貸。皓謂浚欲樹私恩,遣人梟首。又尚書熊睦見皓酷虐,微有所諫,皓使人以刀環撞殺之,身無完肌。〉秋八月,京下督孫楷降晉。鄱陽言歷陽山石文理成字,凡二十,云「楚九州渚,吳九州都,揚州士,作天子,四世治,太平始」。〈《江表傳》曰:歷陽縣有石山臨水,高百丈,其三十丈所,有七穿駢羅,穿中色黃赤,不與本體相似,俗相傳謂之石印。又云,石印封發,天下當太平。下有祠屋,巫祝言石印神有三郎。時歷陽長表上言石印發,皓遣使以太牢祭歷山。巫言,石印三郎說「天下方太平」。使者作高梯,上看印文,詐以朱書石作二十字,還以啟皓。皓大喜曰:「吳當爲九州作都、渚乎!從大皇帝逮孤四世矣,太平之主,非孤復誰?」重遣使,以印綬拜三郎爲王,又刻石立銘,襃贊靈德,以荅休祥。〉又吳興陽羨山有空石,長十餘丈,名曰石室,在所表爲大瑞。乃遣兼司徒董朝、兼太常周處至陽羨縣,封襌國山。明年改元,大赦,以恊石文。
張詠(Chō Ei)は東呉の湘東太守で、『三国志(さんごくし)』の関連記録に見える。『演義』にはこの人物は登場しない。
事績
天璽元年、張詠は筭緡を納めなかったため、その場で斬首され、首は各郡に伝え示された(史書に記載)。
関係
- 会稽(かいけい)太守の車浚(シャ・シュン)とともに処刑された。
戦績
戦場の記録
原文に記された一騎討ち・討ち取り・処刑を、史書と演義に分けて数えます。
- 史巻48処刑敗「就在所斬之,徇首諸郡」
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孫呉
所属勢力
孫呉(そんご)は三国(さんごく)時代に江東を領有した政権である。孫策(そん さく)は軍を率いて浙江を渡り、会稽(かいけい)を攻略して現地の勢力を平定した。その後、自ら会稽太守を兼ね、官吏を任命して呉郡・丹楊・豫章郡(よしょうぐん)および分置された廬陵郡を治めさせ、江東における孫氏の支配を拡大した。孫権(そん けん)は江東を領有し、かつて劉備(りゅうび)と協力して曹操(そうそう)に抵抗した。黄龍元年(229)、孫権は南郊で皇帝に即位し、父の孫堅(そん けん)を武烈皇帝、兄の孫策を長沙(ちょうさ)桓王と追尊し、孫登(そん とう)を皇太子に立てた。孫権の死後、孫亮(そん りょう)が跡を継いだ。孫亮の廃位(そんりょうのはいい)後、孫休(そん きゅう)が迎えられて即位し、孫休の死後、孫皓(そん こう)が迎えられて帝位に就いた。孫皓の即位(そんこうのそくい)後、元興と改元し、父の孫和(そん か)を文皇帝と追尊した。