蜀漢
鐔承
字 公文

鐔承(しんしょう)は蜀漢(しょくかん)広漢の人で、郡守・少府を歴任し、太常に至った。
出典
原典に鐔承が登場する箇所
正史 · 巻 42『三国志』
…太常廣漢鐔承、〈《華陽國志》曰:承字公文,歷郡守少府。〉光祿勛河東裴儁等,年資皆在光後,而登據上列,處光之右,蓋以此也。…
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延熙九年秋,大赦,光於眾中責大將軍費禕曰:「夫赦者,偏枯之物,非明世所宜有也。衰弊窮極,必不得已,然後乃可權而行之耳。今主上仁賢,百僚稱職,有何旦夕之危,倒懸之急,而數施非常之恩,以惠姦宄之惡乎?又鷹隼始擊,而更原宥有罪,上犯天時,下違人理。老夫耄朽,不達治體,窮謂其法難以經久,豈具瞻之高美,所望於明德哉。」禕但顧謝踧踖而已。光之指摘痛癢,多如是類。故執政重臣,心不能悅,爵位不登,每直言無所迴避,為代所嫌。太常廣漢鐔承、〈《華陽國志》曰:承字公文,歷郡守少府。〉光祿勛河東裴儁等,年資皆在光後,而登據上列,處光之右,蓋以此也。〈傅暢《裴氏家記》曰:儁字奉先,魏尚書令潛弟也。儁姊夫爲蜀中長史,儁送之,時年十餘歲,遂遭漢末大亂,不復得還。既長知名,爲蜀所推重也。子越,字令緒,爲蜀督軍。蜀破,遷還洛陽,拜議郎。〉
鐔承(Tan Cheng)、字は公文(Gongwen)。蜀漢(しょくかん)の太常で、廣漢(Guanghan)の人。該当する章回については記載資料が見当たらず、『演義』にも登場しない。
事績
鐔承は郡守、少府を歴任し、のちに太常に任じられた(史書の記載)。
関係
- 官歴は孟光(もう こう)より後だが、官位は孟光より上である。
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蜀漢
所属勢力
蜀漢(しょくかん)は三国(さんごく)時代に劉備(りゅうび)が建てた政権で、国号は漢といい、通常は蜀漢と称される。建安十六年(211)、劉備は劉璋(りゅう しょう)の招きに応じて益州(えきしゅう)に入り、その後、方針を転じて益州を攻め取り、諸葛亮(しょかつりょう)らとともに成都(せいと)を包囲した。成都を平定した後、劉備は諸葛亮を軍師将軍に任じ、左将軍府の事務を処理させた。章武元年(221)、劉備は成都で皇帝に即位し、劉禅(りゅう ぜん)を皇太子に立てた。 223年、劉備が死去すると、劉禅は成都で跡を継いだ。当時、十七歳だった。諸葛亮は後事を託されて政務を補佐し、丞相として内外の政務を総括した。 蜀漢は益州を統治の基盤とし、曹魏(そうぎ)との戦いを続けた。諸葛亮は軍を率いて南方に遠征し、南中(なんちゅう)の四郡を平定するとともに、現地の郡県の編制を改めた。その後も蜀軍は北伐を続けた。 263年、魏の朝廷は鄧艾(とうがい)や鍾会(しょうかい)らに別路から蜀を攻めさせ、巴蜀への進攻を計画した。