蜀漢
焦璜

焦璜(しょうこう)は蜀漢(しょくかん)の越巂太守で、叟夷の反乱で殺されたと記録される。
出典
原典に焦璜が登場する箇所
正史 · 巻 43『三国志』
…初,越巂郡自丞相亮討高定之後,叟夷數反,殺太守龔祿、焦璜,是後太守不敢之郡,只住安定縣,去郡八百餘里,其郡徒有名而已。…
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十四年,武都氐王苻健請降,遣將軍張尉往迎,過期不到,大將軍蔣琬深以為念。嶷平之曰:「苻健求附款至,必無他變。素聞健弟狡黠,又夷狄不能同功,將有乖離,是以稽留耳。」數日,問至,健弟果將四百戶就魏,獨健來從。初,越巂郡自丞相亮討高定之後,叟夷數反,殺太守龔祿、焦璜,是後太守不敢之郡,只住安定縣,去郡八百餘里,其郡徒有名而已。時論欲復舊郡,除嶷為越巂太守,嶷將所領往之郡,誘以恩情,蠻夷皆服,頗來降附。北徼捉馬最驍勁,不承節度,嶷乃往討,生縛其帥魏狼。又解縱告喻,使招懷餘類。表拜狼為邑侯,種落三千餘戶皆安土供職。諸種聞之,多漸降服。嶷以功賜爵關內侯。
焦璜は蜀漢(しょくかん)の越巂太守であり、『三国志(さんごくし)』巻四十三に記されている。演義には登場しない。
事績
史書によると、越巂(Etsusui)の叟夷(Sōi)が反乱を起こし、太守の龔祿(Kōroku)と焦璜を殺害した。その後、太守は郡に赴くことを恐れ、郡から八百余里離れた安定県(Andai-ken)に留まったため、越巂郡は名ばかりの存在となった。
関係
- 龔祿とともに、叟夷の反乱によって殺害された越巂太守。
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蜀漢
所属勢力
蜀漢(しょくかん)は三国(さんごく)時代に劉備(りゅうび)が建てた政権で、国号は漢といい、通常は蜀漢と称される。建安十六年(211)、劉備は劉璋(りゅう しょう)の招きに応じて益州(えきしゅう)に入り、その後、方針を転じて益州を攻め取り、諸葛亮(しょかつりょう)らとともに成都(せいと)を包囲した。成都を平定した後、劉備は諸葛亮を軍師将軍に任じ、左将軍府の事務を処理させた。章武元年(221)、劉備は成都で皇帝に即位し、劉禅(りゅう ぜん)を皇太子に立てた。 223年、劉備が死去すると、劉禅は成都で跡を継いだ。当時、十七歳だった。諸葛亮は後事を託されて政務を補佐し、丞相として内外の政務を総括した。 蜀漢は益州を統治の基盤とし、曹魏(そうぎ)との戦いを続けた。諸葛亮は軍を率いて南方に遠征し、南中(なんちゅう)の四郡を平定するとともに、現地の郡県の編制を改めた。その後も蜀軍は北伐を続けた。 263年、魏の朝廷は鄧艾(とうがい)や鍾会(しょうかい)らに別路から蜀を攻めさせ、巴蜀への進攻を計画した。