孫呉 · 綏南中郎將、左將軍、衛將軍、龍編侯、交阯太守
士燮
字 威彥 · 137–226

士燮(ししょう)は孫呉(そんご)期に交州(こうしゅう)を治め、寛厚な統治で南方の安定を長く保った。
生涯
正史 8 巻
ランキング
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史載(史書の記録)
士燮(Shi Xie)は字を威彦といい、蒼梧(そうご)広信の人である。祖先はもと魯国汶陽に住んでいたが、王莽の乱の際に交州(こうしゅう)へ避難した。士燮は若い頃、京師で遊学し、潁川(えいせん)の劉子奇に師事して『左氏春秋』を学んだ。察挙によって孝廉に推挙され、尚書郎に補任されたが、公務上の問題で免官となった。父の士賜が亡くなり、服喪期間を終えると、再び茂才に推挙され、まず巫県の県令に任じられ、のちに交阯太守へ昇進した。 その仕官の出発点は漢の朝廷にあったが、彼が実際に名声と影響力を築いたのは、中原から遠く離れ、情勢が乱れた交州であった。
交州刺史の朱符が夷賊に殺されると、州郡は混乱した。士燮は上表し、弟の士壹、士䵋、士武をそれぞれ合浦・九真・南海の太守に任じてもらい、これによって士氏兄弟は州の要地を共同で掌握した。 『三国志(さんごくし)』は士燮を「度量が広く、謙虚に士人を遇した」と評している。中原の士人で乱を避けて彼のもとに身を寄せた者は百人を数え、彼は『春秋』の研究に打ち込み、注釈も著した。袁徽は荀彧(じゅん いく)に宛てた手紙で、士燮の学識が広く政務にも通じ、大乱の中で一郡を二十余年にわたり保全し、境内を平穏に保ち、民が生業を失わないようにしたうえ、難を逃れてきた旅人も保護したと称賛している。
漢の朝廷は張津が殺されたと知ると、士燮に綏南中郎将・董督七郡を授け、引き続き交阯太守を兼ねさせた。士燮は張旻を京都へ派遣して貢物を献上させ、朝廷はさらに彼を安遠将軍に任じ、龍度亭侯に封じた。 建安十五年、孫権(そん けん)は歩騭(ほしつ)を交州刺史に任じた。士燮は兄弟とともにその指揮に従い、孫権から左将軍を加授された。建安末年、士燮は息子の士廞を人質として送り、孫権は士廞を武昌(ぶしょう)太守に任じた。士燮はさらに益州(えきしゅう)の豪族である雍闓(ようがい)らに働きかけ、遠方から帰属させた。その功績により衛将軍に昇進し、龍編侯に封じられた。彼は孫権と頻繁に往来し、毎年使者を派遣して香料や珍宝、珍しい果物を献上した。孫権は書簡と手厚い下賜品でこれに応じた。士燮は郡を四十余年にわたって治め、黄武五年に九十歳で亡くなった。
陳寿(ちんじゅ)は士燮を「南越の太守となり、安らかに生涯を終えた」と評した一方、息子が慎みを欠いたため災いを招いたと指摘し、士氏は富貴と地勢の険しさを頼みとしたものの、結局家業を保つことはできなかったと述べている。 士燮の死後、孫権は交州・広州の二州を改めて置き、陳時を後任の交阯太守として派遣した。士徽は新たな任命を拒み、のちに呂岱(りょたい)の襲撃を受けて誅殺された。 この死後の変局は、士燮が長年築いた地方権力と孫呉(そんご)の郡県統治との衝突を浮き彫りにするが、士燮が生前に行ったことと単純に結びつけることはできない。
演義(小説)
演義にはこの人物は登場しない。現存する小説の資料はないため、これをもとに士燮の演義における人物像を語ることはできず、史書の記述と対照できる小説上の逸話も存在しない。
重要な関係
士燮の政治的基盤は、家族と対外的な承認の双方に由来していた。弟の士壹、士䵋、士武が交州の各郡を分担して治め、士氏の勢力は南方の広い地域を覆っていた。士燮は、乱を避けてやって来た名士の程秉(ていへい)を長史に任用し、薛綜(せつそう)も召し出して仕えさせた。このことから、交州は避難の地であるだけでなく、人材が一時的に身を寄せ、統治に加わる場所でもあったことがうかがえる。 袁徽の評言はとりわけ、士燮の名声が盛大な儀仗や百蛮を威服させたことだけでなく、民を安んじ、各地から流寓してきた士人を受け入れる統治の評判にも支えられていたことを示している。
孫権との関係は、地方の首領として命を受け、指揮に従う立場から、次第に孫呉の交州における重要な支柱へと発展した。士燮は歩騭に従い、息子を人質として送り、地方の産物を献上した。孫権は官位や侯爵を与えて報いた。陸機(りくき)も『弁亡論』で士燮が「険阻な地にあって命を捧げた」と述べ、その帰属を孫呉が南方への影響力を広げる一環として描いている。 しかし、こうした協力が士氏一族の長期にわたる権力維持につながったわけではない。士燮の死後、士徽が命令に従わず、最終的に呂岱に誅殺されたことは、継承をめぐって双方の政治関係が急速に衝突へ転じたことを示している。
象徴的な場面
士燮の交州統治を最もよく表す場面は、戦場ではなく、乱世に一方の安定を保った姿である。中原の士人が相次いで南下して避難してくるなか、士燮は寛大で謙虚な態度で彼らを遇し、自身は政務の合間に経書や伝注を学んだ。袁徽は、士燮が二十余年にわたり一郡を保全し、境内を平穏に保ち、各地から移り住んだ人々を落ち着かせたと称賛している。このことから士燮は、中原の覇権争いではなく、地方統治によって名を知られた人物といえる。
もう一つの場面は、孫権と士燮の間で続いた使節の往来である。天下の街道が断絶していた時にも、士燮は張旻を京都へ派遣して貢物を献上させた。孫権に帰属した後も、毎年使者を送り、南方の珍品を届けた。孫権は返書と手厚い下賜品を贈った。これは漢の朝廷の名目的な秩序を士燮が維持していたことと、新たな政治体制の中で孫呉との間に築いた交換関係の双方を示している。 士燮の死後、士徽が陳時の後任就任を拒み、呂岱が兵を交州に進めて士徽を誅殺したことは、この地方権力構造の終幕であり、士燮自身が経験した場面と誤って記すべきではない。

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