言語
來

來忠

登場回
1
台詞の記録
0
人間関係
1
内面の独白
1

史載(Historical Record)

來忠の父・来敏(らいびん)は、字を敬達といい、義陽新野(しんや)の人で、漢末の名臣・来歙の後裔である。来敏(らいびん)の父・来艶はかつて漢の司空にまで官位が至り、華嶠『後漢書』の記載によれば、来艶は学を好んで士に謙り、館を開いて徒を養い、若くして顕職を歴任した c:2495。漢末の大乱の際、来敏(らいびん)はその姉婿である黄琬(こうえん)(劉璋(りゅう しょう)の祖母の甥)に従って荊州(けいしゅう)へ赴いた。後に劉璋(りゅう しょう)が人を遣わして黄琬(こうえん)の妻を迎えたため、来敏(らいびん)は姉とともに蜀に入り、しばしば劉璋(りゅう しょう)の座上の賓客となった。来敏(らいびん)は書籍を渉猟し、とりわけ『左氏春秋』に長じ、また『倉』『雅』の訓詁の学に精通し、文字の校正に熱心であった c:2495。

劉備(りゅうび)が益州(えきしゅう)を平定した後、来敏(らいびん)を典学校尉に任じた。太子・劉禅(りゅう ぜん)が立てられると、来敏(らいびん)はまた家令に任じられた。劉禅(りゅう ぜん)が即位すると、来敏(らいびん)は虎賁中郎将に昇進した。丞相・諸葛亮(しょかつりょう)が漢中(かんちゅう)に駐屯した際、来敏(らいびん)を軍祭酒・輔軍将軍に招いたが、来敏(らいびん)は後に故あって免職された。諸葛亮(しょかつりょう)の言によれば、来敏(らいびん)はかつて上官に対し「新人にどのような功徳があって私の栄資を奪い彼に与えるのか。諸人が共に私を憎むのは、どうしてこのようなことなのか」という言を発し、諸葛亮(しょかつりょう)は彼を「年老いて狂悖し、この怨言を生じた」とみなし、先帝・劉備(りゅうび)が成都(せいと)を初めて定めた時にも、議者が来敏(らいびん)を「群を乱す」とみなしたために重用しなかったことを指摘した。劉子初が彼を太子家令に選んだ時、先帝もまた喜ばなかった。諸葛亮(しょかつりょう)は「人を知ることに暗かった」と自責し、先帝が疎んじ遠ざけた人に背き、彼によって薄俗を篤く励ますことができなかったとし、最終的に上表してその職を退け、門を閉じて過ちを思わせた c:2495。

諸葛亮(しょかつりょう)の死後、来敏(らいびん)は成都(せいと)に戻り、大長秋を務めたが、再び免職された。その後、彼は累進して光禄大夫となったが、再び過失によって黜けられた。来敏(らいびん)は生涯において何度も貶削されたが、いずれも彼の「言語が節度を欠き、挙動が常に違う」ためであった c:2495。当時、孟光(もう こう)もまた枢機を慎まず、議論が時に干したが、来敏(らいびん)に比べれば、孟光(もう こう)の状況はやや良かった。来敏(らいびん)と孟光(もう こう)は同じく耆宿の学士であり、世人の礼遇を受けた。来敏(らいびん)は荊楚の名族の出身であり、また東宮の旧臣であったため、特別な優遇を受け、廃黜されても再び起用されることができた。後に、来敏(らいびん)は執慎将軍に任じられたが、これは官職の尊重をもって自らを戒めさせる意図であった。来敏(らいびん)は享年九十七歳、景耀年間に没した c:2495。

來忠は来敏(らいびん)の子として、やはり経学を博覧し、その父の才華と気骨を受け継いだ。彼は尚書の向充らとともに大将軍・姜維(きょうい)を補佐した。姜維(きょうい)は來忠を非常に重んじ、彼を参軍に任じた c:2495。

演中(In the Novel)

『三国演義』では來忠について単独の文学的描写はなされておらず、その事績は小説中に明確な記載がない。そのため、來忠の演義における人物像、言行、または具体的な場面については、史に明記がない。小説は主に三国(さんごく)時代の主要人物と重大な歴史事件に焦点を当てており、史料に言及されるが影響力が比較的小さい人物については、しばしば省略されるか一筆で済まされる。來忠は史料においては父・来敏(らいびん)の詳細な記載があり、彼が姜維(きょうい)を補佐したことにも触れられているが、演義の叙事の枠組みにおいては、これらの細部は採用も拡張もされなかった c:2495。

重要な関係

* 姜維(きょうい):來忠は尚書の向充らとともに大将軍・姜維(きょうい)を補佐した。姜維(きょうい)は來忠の才華と学識を非常に高く評価し、彼を参軍に任じた。これにより、來忠が姜維(きょうい)の麾下で重要な幕僚の役割を果たし、軍事や政務の謀議に参与したことがうかがえる c:2495。
* 来敏(らいびん)(父):來忠は来敏(らいびん)の子である。来敏(らいびん)は蜀漢(しょくかん)の著名な学者・官員であり、その博学と小事にこだわらない性格で知られた。來忠はその父の経学を博覧する特徴を受け継ぎ、史書に「敏の風あり」と記され、学識やある面で父と相似していたことを示している c:2495。

象徴的な場面

* 姜維(きょうい)の補佐:來忠の最も顕著な貢献と場面は、彼が尚書の向充らとともに大将軍・姜維(きょうい)を補佐したことである。この時期、姜維(きょうい)は蜀漢(しょくかん)後期の軍事的支柱として何度も北伐し、來忠はその参軍として、必ずや軍政の要務の討論や決策に参与し、姜維(きょうい)のために謀をめぐらし、自らの学識と智慧を貢献した c:2495。姜維(きょうい)が彼を重んじたことも、來忠の当時の地位と能力を側面から反映している。史料はその具体的な言行を詳細に記載していないが、参軍として姜維(きょうい)を補佐したことは、間違いなくその職業生涯における輝かしい瞬間である。この場面は、來忠が博学の士として、蜀漢(しょくかん)後期の国家危難の際に、心を尽くして国のために尽力した姿を体現している。

人間関係

1 件の関係

登場回1 回 ▸
  • 史ch.42
関係の年表1 条 ▸

史 ch.42

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は来忠(らい ちゅう)、字は敬達(けいたつ)である。自らの来し方を思うたび、わが身が受け継いだものには、家柄もあれば、流離の経験もあると感じる。父の来艶(らい えん)はかつて漢の司空を務め、学問を好み、身分の低い者にもへりくだって接した。