言語
張

曹魏(そうぎ)

張臶(ちょうせん)

登場回
1
台詞の記録
2
人間関係
2
内面の独白
1

史書の記録(Historical Record)

張臶(ちょうせん)、字は子明。鉅鹿の人である。少年の頃に太学に遊学し、学問は内外に兼ね及び、後に郷里に帰った。袁紹(えんしょう)は幾度も彼を辟召したが、張臶はいずれも応じず、かえって上党に移り住んだ。并州牧の高幹(こうかん)もまた彼を表奏して楽平令としたが、張臶は同じく就任せず、転じて常山に隠遁し、門徒は数百人に及び、後にまた任県に移り住んだ c:1749。

曹操(そうそう)が丞相であったとき、彼もまた張臶を辟召したが、彼は赴かなかった。魏の明帝の太和年間、朝廷は詔を下して隠居の学者を求め、災異を除くことを願った。郡は幾度も張臶を挙げ、人を遣わして征召したが、彼は老いて体が弱いことを理由に命に応じられなかった c:1749。

広平太守の盧毓(ろ いく)は着任して三日後、属下が彼に前任のように張臶に名帖を差し出して訪問するよう勧めた。盧毓は言った。「張先生はいわゆる『上は天子に事えず、下は諸侯と友とせず』の人である。これがどうして名帖で飾れるものか。」そこで主簿だけを遣わして書を奉り、羊酒の礼を送った c:1749。

青龍四年(236年)、朝廷は詔書を頒布し、張掖(ちょうえき)郡の玄川が溢れ涌き、激しい波が奮い荡い、宝石が図を負い、状は霊亀に似て、川の西に宅し、磐石が屹立し、その上の紋理が清晰で、麟・鳳・龍・馬の形象が焕炳として形を成し、文字の告命が粲然として著明であった、と称した。太史令の高堂隆(こうどうりゅう)は、これは古の皇聖帝も蒙ったことのない祥瑞であり、まことに曹魏(そうぎ)の禎命にして東序の世宝であると上奏した。このことは天下に伝わった。任県の県令・于綽はこれらの情報を携えて張臶に問うた。張臶は密かに于綽に告げた。「神明は未来を予知できるが、すでに往きしものを溯ることはない。祥瑞がまず現れ、その後に廃興がそれに従う。漢はすでに滅んで久しく、魏はすでに天下を得た、なにゆえこれらの徴を溯る必要があろうか。この石は、今の変異であって、将来の祥瑞である。」 c:1749

正始元年(240年)、一羽の戴鵀鳥が張臶の家の門の陰に巣を作った。張臶は門人に告げた。「戴鵀は陽の鳥であるのに、門の陰に巣を作る、これは凶兆である。」そこで彼は琴をかき鳴らして歌詠し、詩二篇を作り、十日後に死去した。享年百五歳であった。同年、広平太守の王粛(おうしゅく)が着任し、各県に令した。「私は以前京都にいたとき、張子明のことを聞き、もともと訪ねに来ようと思っていたが、思いがけず彼はすでに死去し、深く痛惜する。この先生は篤学にして隠居し、世俗と争わず、道をもって自ら楽しんだ。昔、絳県の老人が泥塗に屈居していたのを、趙孟が抜擢し、諸侯はそれによって和睦した。私は彼が年老いて道学に勤めながら、栄寵を蒙らなかったのを憐れむ。詔書が到着したならば、官吏を遣わしてその家族を慰問し、その門戸を顕赫させ、必ず殊異を加え、もって逝きし者を慰め、後人を勧めよ。」 c:1749

演義の記述(In the Novel)

『三国演義』には張臶という人物は言及されておらず、したがって彼に対する文学的造形はない。彼の生涯の事績、たとえば袁紹・曹操の辟召に応じなかったこと、山林に隠居したこと、および「河図」の石に対する独自の解読は、いずれも演義に明記されていない c:1749。演義は主に三国(さんごく)時代の軍事闘争と政治権謀に焦点を当てており、張臶のような隠居して仕えぬ学者については、通常筆を費やさない。したがって、演義には彼の性格、対話の描写はなく、彼と盧毓、王粛らとの交流の筋立てもない。

主要な関係

* 袁紹集団(えんしょうしゅうだん)(defected_from):張臶は幾度も袁紹に辟召されたが、いずれも命に応じず、かえって上党への移住を選び、いかなる諸侯にも依附したくないという立場を表明した c:1749。
* 曹魏(defected_from):曹操が丞相であったとき、かつて張臶を辟召したが、彼は同じく赴かなかった。魏の明帝の時期、朝廷が詔を下して隠学の士を求め、郡が張臶を挙げたが、彼は老病を理由に応召を拒み、その「天子に事えず」の原則を体現した c:1749。
* 盧毓(rival_of):広平太守の盧毓は着任後、属下が彼に前任のように張臶に名帖を差し出すよう提議したのを拒み、張臶は「上は天子に事えず、下は諸侯と友とせず」の人だと率直に言った。しかし彼はなお主簿を遣わして書を奉り羊酒の礼を致した。これは盧毓が張臶の隠士の風範を理解しながらも、ある程度官方の距離と尊重を保ったことを示している c:1749。
* 王粛:広平太守の王粛は張臶の逝去を深く痛惜し、各県に令してその家族を厚遇させ、その篤学隠居・道をもって身を楽しませた品格を表彰し、官方の隠士に対する追認と推崇を体現した c:1749。

象徴的な場面

* 辟召に応じず、山林に隠遁す:張臶は幾度も袁紹、高幹、曹操らの辟召を拒み、上党、常山、任県への移住を選び、門徒数百人をもって、「天子に事えず、諸侯と友とせず」の原則を堅持し、道をもって身を楽しませた c:1749。これは彼の世を遺して独立する隠士の風範を十分に示している。
* 盧毓の「謁せず」と「礼を致す」:広平太守の盧毓は着任後、属下が彼に張臶へ名帖を差し出すよう提議したのを拒み、張臶を「上は天子に事えず、下は諸侯と友とせず」と評した。しかし、彼はなお主簿を遣わして書を奉り羊酒の礼を送った。この挙措は張臶の隠士の身分を尊重するとともに、官方の礼節を体現し、一段の佳話となった c:1749。
* 「河図」の石の解読:青龍四年、張掖郡で「河図」の石が発見され、曹魏の祥瑞とみなされた。任県令の于綽が張臶に教えを請うと、張臶は密かに指摘した。「漢はすでに久しく亡び、魏はすでにこれを得た、なにゆえ徴祥を追い興す必要があろうか。この石は、今の変異であって将来の禎瑞である。」彼は超然たる智慧をもって、祥瑞の本質を明らかにし、単に官方の政治宣伝に付和したのではなかった c:1749。
* 戴鵀鳥の営巣と死期の予知:正始元年、戴鵀鳥が張臶の門の陰に巣を作った。張臶は「戴鵀は陽の鳥であるのに、門の陰に巣を作る、これは凶兆である」と考え、ただちに琴をかき鳴らして歌詠し、詩二篇を作り、旬日にして卒し、享年百五歳であった。この場面は宿命論の色彩に満ち、また彼の生死を自然とする豁達な態度を示している c:1749。

人間関係

2 件の関係

台詞

  • 史 ch.11 §71

    「張掖郡玄川溢涌,激波奮蕩,寶石負圖,狀像靈龜,宅于川西,嶷然磐峙,倉質素章,麟鳳龍馬,煥炳成形,文字告命,粲然著明。太史令高堂隆上言:古皇聖帝所未甞蒙,實有魏之禎命,東序之世寶。」

  • 史 ch.11 §71

    「夫神以知來,不追已往,禎祥先見而後廢興從之。漢已乆亡,魏已得之,何所追興徵祥乎!此石,當今之變異而將來之禎瑞也。」

登場回1 回 ▸
  • 史ch.11
関係の年表1 条 ▸

史 ch.11

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は張臶(ちょうせん)、字は子明という。若い頃、太学に遊学し、学んだことは内学・外学の双方に及んだ。学業を終えて故郷に帰ると、一地方の静かな暮らしを守り、聞き学んだことを立身出世の足掛かりにするつもりはなかった。袁紹(えんしょう)から前後し