言語
呂

曹魏(そうぎ) · 列侯

呂翔

登場回
3
台詞の記録
0
人間関係
2
内面の独白
1

史載(Historical Record)

呂翔は、正史において袁尚(えんしょう)の将領として現れる。袁紹(えんしょう)が没した後、その子の袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)の間で継承問題をめぐって衝突が爆発した。袁譚(えんたん)は長子であるため、本来継位すべきであったが、袁紹(えんしょう)の妻の劉氏が袁尚(えんしょう)を偏愛し、加えて審配(しんぱい)・逢紀(ほうき)と辛評(しんぴょう)・郭図(かくと)の間の権力闘争のために、最終的に袁尚(えんしょう)が継承人に立てられた。袁譚(えんたん)はこれによって自ら車騎将軍を号し、袁尚(えんしょう)と嫌隙を生じた。曹操(そうそう)はその機に乗じて袁譚(えんたん)・袁尚(えんしょう)を北征した。曹操(そうそう)が袁譚(えんたん)を攻めた際、袁尚(えんしょう)はかつて兵を派遣して支援したが、袁譚(えんたん)にその兵権を奪われることを恐れ、それゆえ少量の兵力のみを派遣し、逢紀(ほうき)を随同させた。袁譚(えんたん)が袁尚(えんしょう)に援兵を求めると、審配(しんぱい)らは与えないことを議定し、袁譚(えんたん)は大いに怒って逢紀(ほうき)を殺した。 c:4908 その後、曹操(そうそう)は河を渡って袁譚(えんたん)を攻め、袁譚(えんたん)は袁尚(えんしょう)に急を告げた。袁尚(えんしょう)は兵を分けて袁譚(えんたん)を益そうとしたが、袁譚(えんたん)にその衆を奪われることを恐れ、そこで審配(しんぱい)に鄴(ぎょう)を守らせ、自ら兵を率いて袁譚(えんたん)を助け、曹操(そうそう)と黎陽(れいよう)で相拒した。双方は二月から九月まで、城下で大いに戦い、袁譚(えんたん)・袁尚(えんしょう)は最終的に敗退して城に入り固守した。曹操(そうそう)は本来城を囲もうとしたが、袁譚(えんたん)・袁尚(えんしょう)は夜間に遁走した。曹操(そうそう)は鄴(ぎょう)まで追い、その麦を収割し、陰安を抜き、続いて軍を引いて許都(きょと)へ帰った。 c:4908 曹操(そうそう)が荊州を南征する期間、袁譚(えんたん)・袁尚(えんしょう)は再び兵を挙げて相攻め、袁譚(えんたん)は兵敗れて平原(へいげん)へ奔った。袁尚(えんしょう)が急ぎ袁譚(えんたん)を攻めると、袁譚(えんたん)はそこで辛毗(しんぴ)を派遣して曹操(そうそう)に救いを求めた。曹操(そうそう)はそこで軍を返して袁譚(えんたん)を救援し、十月に黎陽(れいよう)に至った。 c:4908 袁尚(えんしょう)は曹操(そうそう)が北返したと聞いて、そこで平原(へいげん)を放棄し、鄴(ぎょう)へ帰った。このとき、袁尚(えんしょう)の将領である呂曠・呂翔は袁尚(えんしょう)に背き、曹操(そうそう)に投じた。袁譚(えんたん)はまた暗かに将軍印を刻し、偽って呂曠・呂翔に授けた。 c:4908

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』において、呂翔と呂曠は一対の兄弟将領として登場し、彼らの叛変の情節は詳しく描かれている。袁尚(えんしょう)は曹軍が河を渡った後、急ぎ軍を引いて鄴(ぎょう)へ帰り、呂曠・呂翔に殿軍を担当するよう命じた。袁譚(えんたん)は袁尚(えんしょう)の退兵を見て、そこで大いに平原(へいげん)の軍馬を率いて追いかけた。数十里進んだ後、呂曠・呂翔兄弟の二人は袁譚(えんたん)を截り止めた。袁譚(えんたん)は馬を勒して二将に言った。「我が父が在りし日、我は二将軍を慢待しなかった。今なぜ我が弟に従って我を迫るのか」 c:899 二将はこの言葉を聞いて、馬を下りて袁譚(えんたん)に投降した。しかし、袁譚(えんたん)は彼らに自分に投降するのではなく、曹丞相に投降するよう勧めた。 c:4909 呂曠・呂翔はそこで袁譚(えんたん)に従って営に帰り、曹操(そうそう)の軍が至ったとき、袁譚(えんたん)によって曹操(そうそう)に引見された。曹操(そうそう)はこれに大いに喜び、自分の娘を袁譚(えんたん)に妻として許嫁し、呂曠・呂翔を媒人とさえした。 c:4909 袁譚(えんたん)は曹操(そうそう)に冀州(きしゅう)を攻め取るよう請うたが、曹操(そうそう)は目下糧草が不足しており、まず糧道を開通させ、しかる後に進兵できると表し、袁譚(えんたん)に暫く平原(へいげん)に居らせた。曹操(そうそう)は続いて軍を引いて黎陽(れいよう)に退き屯し、呂曠・呂翔を列侯に封じ、彼らを随軍させて聴用した。 c:4909 郭図(かくと)は袁譚(えんたん)に、曹操(そうそう)が娘を婚に許したのはおそらく真心ではなく、呂曠・呂翔を封賞したのは河北の人心を籠絡するためであり、後日必ず禍患となると指摘した。彼は袁譚(えんたん)に将軍印二顆を刻し、暗かに呂曠・呂翔に送り、彼らを内応とするよう建議した。曹操(そうそう)が袁尚(えんしょう)を攻め破るのを待って、その機に乗じて曹操(そうそう)を図ることができると。 c:4909 後に、曹操(そうそう)は冀州(きしゅう)から許都(きょと)へ帰り、荊州を攻め取ろうと意図し、特に曹仁(そうじん)・李典(りてん)および降将の呂曠・呂翔らを派遣して三万の兵馬を率いて樊城(はんじょう)に屯駐させ、荊襄を虎視し、虚実を探査させた。このとき、呂曠・呂翔は曹仁(そうじん)に、劉備(りゅうび)が新野(しんや)で兵を招き馬を買い、草を積み糧を儲え、その志は小さくなく、早く図らねばならないと禀報した。彼らは曹丞相に投降して以来、寸功を立てていないので、精兵五千を率いて、劉備(りゅうび)の首を取って、丞相に献じることを請うと表した。 c:4910 演義における呂曠・呂翔の形象はより豊満で、曹操(そうそう)に投降する細部があるだけでなく、彼らが曹操(そうそう)のために効力し、主動的に願い出て作戦する情節も描かれており、これは史書には明確な記載がない。

重要な関係

* 袁尚(えんしょう)(defected_from):呂翔は最初、袁尚(えんしょう)の部将であったが、袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)の内闘の中で、彼は呂曠とともに袁尚(えんしょう)に背き、曹操(そうそう)に投じた。 c:4908 (史演合一)
* 袁譚(えんたん)(defected_to):呂翔は袁尚(えんしょう)に背いた後、まず袁譚(えんたん)に投降したが、袁譚(えんたん)はまた彼らに曹操(そうそう)に投降するよう建議した。袁譚(えんたん)はまた暗かに印を刻し、呂曠・呂翔を内応として利用しようとした。 c:4909 (史演合一)
* 曹魏(そうぎ)(defected_to):呂翔は最終的に曹操(そうそう)に投じ、列侯に封じられ、随軍して聴用された。演義では、彼らはさらに曹操(そうそう)が荊州を攻める重要な将領となり、主動的に願い出て曹操(そうそう)のために効力した。 c:4910 (史演合一)

象徴的な場面

* 黎陽の叛変:曹操(そうそう)が袁譚(えんたん)・袁尚(えんしょう)を北征する期間、袁尚(えんしょう)は曹操(そうそう)が北返したと聞いて、そこで平原(へいげん)を放棄して鄴(ぎょう)へ帰った。このとき、呂曠・呂翔は袁尚(えんしょう)に背き、曹操(そうそう)に投じた。この事件は直接的に袁尚(えんしょう)の力を削弱し、曹操(そうそう)の実力を増強した。 c:4908
* 袁譚の勧降:『三国(さんごく)演義』において、呂曠・呂翔は殿軍の際に袁譚(えんたん)に截り止められた。袁譚(えんたん)の一番の言葉が、二将を馬から下りて投降させた。しかし、袁譚(えんたん)は彼らを直接収編せず、かえって彼らに曹操(そうそう)に投降するよう建議し、後続の劇情の発展に伏線を埋めた。 c:4909 (演義独自)
* 劉備攻撃を願い出る:『三国(さんごく)演義』において、呂曠・呂翔は曹操(そうそう)に投降した後、功を立てるため、主動的に曹仁(そうじん)に願い出て、精兵五千を率いて劉備(りゅうび)の首を取ることを求めた。この場面は彼らが降将として表現を急ぎ、忠心に効力する形象を示している。 c:4910 (演義独自)

人間関係

2 件の関係

登場回3 回 ▸
  • 史ch.6
  • 演ch.32ch.35
関係の年表1 条 ▸

演 ch.32

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は呂翔。袁氏兄弟が覇を競うさなかに身を置き、目にしたのは、ありふれた軍中の進退ではなかった。袁尚(えんしょう)は父の遺した勢力を受け継いで冀州(きしゅう)を占め、袁譚(えんたん)は車騎将軍を自称していた。兄弟の間に溝が生じると、配下の者た
生涯の大事1 ▸
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