言語

曹魏

壹多雜

壹多雜の肖像
他の人物と同じ場面に →

壹多雜(イッタザツ)は曹魏(そうぎ)から車師後部王に封じられ、頼城を治所とし、侍中・大都尉に任じられ、魏王の印を授かった。

正史 『三国志』巻30 · 『演義』に登場せず

出典

原典に壹多雜が登場する箇所

  • 正史 · 巻 30『三国志』

    …王治于賴城,魏賜其王壹多雜守魏侍中,號大都尉,受魏王印。轉西北則烏孫、康居,本國無增損也。
    段落全文を読む

    大秦道既從海北陸通,又循海而南,與交趾七郡外夷比,又有水道通益州、永昌、故永昌出異物。前世但論有水道,不知有陸道,今其略如此,其民人戶數不能備詳也。自蔥領西,此國最大,置諸小王甚多,故錄其屬大者矣。澤散王屬大秦,其治在海中央,北至驢分,水行半歲,風疾時一月到,最與安息安穀城相近,西南詣大秦都不知里數。驢分王屬大秦,其治去大秦都二千里。從驢分城西之大秦渡海,飛橋長二百三十里,渡海道西南行,繞海直西行。且蘭王屬大秦。從思陶國直南渡河,乃直西行之且蘭三千里。道出河南,乃西行,從且蘭復直西行之汜復國六百里。南道會汜復,乃西南之賢督國。且蘭、汜復直南,乃有積石,積石南乃有大海,出珊瑚,真珠。且蘭、汜復、斯賓阿蠻北有一山,東西行。大秦、海西東各有一山,皆南北行。賢督王屬大秦,其治東北去汜復六百里。汜復王屬大秦,其治東北去于羅三百四十里渡海也。于羅屬大秦,其治在汜復東北,渡河,從于羅東北又渡河,斯羅東北又渡河。斯羅國屬安息,與大秦接也。大秦西有海水,海水西有河水,河水西南北行有大山,西有赤水,赤水西有白王山,白玉山有西王母,西王母西有脩流沙,流沙西有大夏國、堅沙國、屬繇國、月氏國、四國西有黑水,所傳聞西之極矣。北新道西行,至東且彌國、西且彌國、單桓國、畢陸國、蒲陸國、烏貪國,皆並屬車師後部王。王治于賴城,魏賜其王壹多雜守魏侍中,號大都尉,受魏王印。轉西北則烏孫、康居,本國無增損也。

壹多雜(いったざつ)は曹魏(そうぎ)から車師後部王に封じられ、頼城を治所とした人物である。『演義』には登場しない。

事績

  • 壹多雜は車師後部王で、頼城を治所とした。(史書の記載)
  • 魏は壹多雜に魏の侍中を守らせ、大都尉の号を与え、魏王の印を授けた。(史書の記載)

関係

  • 曹魏(そうぎ)から冊封・下賜を受け、魏の侍中、大都尉および魏王の印を授けられた。

ランキング

各ランキングでの順位。

ほか 2 件
曹魏

続けて読む

曹魏

所属勢力

曹魏(そうぎ)は、三国(さんごく)時代に「魏」を国号とした政権である。後漢末期、曹操(そうそう)は次第に朝廷の大権を掌握し、魏公、魏王に相次いで封じられ、曹氏政権樹立の基礎を築いた。建安二十五年(220年)、曹丕(そうひ)は魏王位を継ぎ、漢献帝(かんけんてい)から禅譲を受けて皇帝に即位し、黄初と改元して国号を大魏と定めた。漢献帝は山陽公に封じられた。曹丕の後は曹叡(そうえい)が即位した。曹叡には子がなく、曹芳(そうほう)を養子として立てた。曹芳の即位に際しては、大将軍の曹爽(そうそう)と太尉の司馬懿(しばい)が政務を補佐した。その後、曹芳の廃位(そうほうのはいい)が行われ、曹髦(そうぼう)が迎えられて帝位に就いた。曹髦の死後、曹奐(そうかん)が即位した。曹魏の皇位は、曹丕、曹叡、曹芳、曹髦、曹奐へと順に継承された。

曹魏を見る →