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曹魏

呂習

呂習の肖像
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呂習(りょしゅう)は魏の廬江(ろこう)の主簿で、呉軍に迎えを要請し、城門を開いて内応しようとした。

正史 『三国志』巻56 · 『演義』に登場せず

出典

原典に呂習が登場する箇所

  • 正史 · 巻 56『三国志』

    …嘉禾六年,魏廬江主簿呂習請大兵自迎,欲開門為應。桓與衛將軍全琮俱以師迎。…
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    黃龍元年,拜桓前將軍,領青州牧,假節。嘉禾六年,魏廬江主簿呂習請大兵自迎,欲開門為應。桓與衛將軍全琮俱以師迎。既至,事露,軍當引還。城外有溪水,去城一里所,廣三十餘丈,深者八九尺,淺者半之,諸軍勒兵渡去,桓自斷後。時廬江太守李膺整嚴兵騎,欲須諸軍半渡,因迫擊之。及見桓節蓋在後,卒不敢出,其見憚如此。是時全琮為督,權又令偏將軍胡綜宣傳詔命,參與軍事。琮以軍出無獲,議欲部分諸將,有所掩襲。桓素氣高,恥見部伍,乃往見琮,問行意,感激發怒,與琮校計。琮欲自解,因曰:「上自令胡綜為督,綜意以為宜爾。」桓愈恚恨,還乃使人呼綜。綜至軍門,桓出迎之,顧謂左右曰:「我縱手,汝等各自去。」有一人旁出,語綜使還。

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ほか 3 件

呂習(Ryū Shū)は魏の廬江(ろこう)の主簿で、『三国志(さんごくし)』の関連記録に見える人物である。演義には登場しない。

事績

呂習は呉軍に大軍で迎えに来るよう求め、城門を開いて内応しようとした。計画が露見した後、呉軍は撤退するほかなかった。(史書の記載による)

関係

  • 魏に仕え、官職は廬江の主簿

戦績

戦場の記録

原文に記された一騎討ち・討ち取り・処刑を、史書と演義に分けて数えます。

計略

その人物が立てた計略と見破った計略(原文に基づく)。

史
実行1 · 成功0 · 不採用0 · 看破0
  • 史内応その他看破された対魏・廬江巻56「魏廬江主簿呂習請大兵自迎,欲開門為應」
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所属勢力

曹魏(そうぎ)は、三国(さんごく)時代に「魏」を国号とした政権である。後漢末期、曹操(そうそう)は次第に朝廷の大権を掌握し、魏公、魏王に相次いで封じられ、曹氏政権樹立の基礎を築いた。建安二十五年(220年)、曹丕(そうひ)は魏王位を継ぎ、漢献帝(かんけんてい)から禅譲を受けて皇帝に即位し、黄初と改元して国号を大魏と定めた。漢献帝は山陽公に封じられた。曹丕の後は曹叡(そうえい)が即位した。曹叡には子がなく、曹芳(そうほう)を養子として立てた。曹芳の即位に際しては、大将軍の曹爽(そうそう)と太尉の司馬懿(しばい)が政務を補佐した。その後、曹芳の廃位(そうほうのはいい)が行われ、曹髦(そうぼう)が迎えられて帝位に就いた。曹髦の死後、曹奐(そうかん)が即位した。曹魏の皇位は、曹丕、曹叡、曹芳、曹髦、曹奐へと順に継承された。

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