曹魏
劉慈

劉慈(りゅうじ)は曹魏(そうぎ)の校事で、黄初初年に吏民の罪の摘発に関与した記録がある。
出典
原典に劉慈が登場する箇所
正史 · 巻 24『三国志』
…校事劉慈等,自黃初初數年之閒,舉吏民姧罪以萬數,柔皆請懲虛實;…
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文帝踐阼,以柔為治書侍御史,賜爵關內侯,轉加治書執法。民間數有誹謗妖言,帝疾之,有妖言輒殺,而賞告者。柔上疏曰:「今妖言者必戮,告之者輒賞。旣使過誤無反善之路,又將開凶狡之羣相誣罔之漸,誠非所以息姧省訟,緝熈治道也。昔周公作誥,稱殷之祖宗,咸不顧小人之怨。在漢太宗,亦除妖言誹謗之令。臣愚以為宜除妖謗賞告之法,以隆天父養物之仁。」帝不即從,而相誣告者滋甚。帝乃下詔:「敢以誹謗相告者,以所告者罪罪之。」於是遂絕。校事劉慈等,自黃初初數年之閒,舉吏民姧罪以萬數,柔皆請懲虛實;其餘小小挂法者,不過罰金。四年,遷為廷尉。
劉慈は曹魏(そうぎ)の校事で、史書の記録に見える人物である。『三国志演義』には登場しない。
事績
黄初(こうしょ)初年の数年間、校事の劉慈らは、吏民の罪を数万件も摘発した。高柔(こうじゅう)は、事実を調べたうえで処罰するよう求めた。(史書の記録)
関係
- 高柔とともに、校事として吏民の罪を摘発した
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曹魏
所属勢力
曹魏(そうぎ)は、三国(さんごく)時代に「魏」を国号とした政権である。後漢末期、曹操(そうそう)は次第に朝廷の大権を掌握し、魏公、魏王に相次いで封じられ、曹氏政権樹立の基礎を築いた。建安二十五年(220年)、曹丕(そうひ)は魏王位を継ぎ、漢献帝(かんけんてい)から禅譲を受けて皇帝に即位し、黄初と改元して国号を大魏と定めた。漢献帝は山陽公に封じられた。曹丕の後は曹叡(そうえい)が即位した。曹叡には子がなく、曹芳(そうほう)を養子として立てた。曹芳の即位に際しては、大将軍の曹爽(そうそう)と太尉の司馬懿(しばい)が政務を補佐した。その後、曹芳の廃位(そうほうのはいい)が行われ、曹髦(そうぼう)が迎えられて帝位に就いた。曹髦の死後、曹奐(そうかん)が即位した。曹魏の皇位は、曹丕、曹叡、曹芳、曹髦、曹奐へと順に継承された。