言語
馬

曹魏(そうぎ) · 天水太守

馬遵(ばじゅん)

登場回
3
台詞の記録
4
人間関係
3
内面の独白
1

史書の記録(Historical Record)

馬遵(ばじゅん)、字は不詳、本籍も不詳、三国(さんごく)時代に天水太守の職を務めた。その生涯の事跡は正史の記載では比較的簡略で、主に『三国志(さんごくし)・姜維伝』およびその注に見える。記載によれば、建興六年(西暦228年)、蜀漢(しょくかん)の丞相・諸葛亮(しょかつりょう)が軍を率いて北伐し、兵鋒は祁山(きざん)に直に向けられた。このとき、馬遵はちょうど姜維(きょうい)・功曹の梁緒・主簿の尹賞(いんしょう)・功記の梁虔ら属官を率いて外出して巡視していた。彼は蜀軍が迫り、各県が次々と呼応していることを知ると、随行する姜維らに疑いを抱き、彼らが異志を懐いているかもしれないと考えた。そこで彼は夜間にひそかに逃れ、上邽へ庇護を求めに行った c:4291。

姜維らは馬遵の離去に気づいた後、追いかけようとしたが、城門に到達したときには城門はすでに閉ざされており、入城できなかった。続いて姜維らは冀縣へ戻ったが、冀縣もまた彼らを受け入れることを拒んだ。行き場のない状況の中、姜維らは最終的に諸葛亮に身を投じた。注目すべきは、馬遵の逃亡の具体的な細部と姜維が蜀に投じた過程について、史料にいくらかの相違があることである。『魏略』の記載では、馬遵は雍州刺史・郭淮(かくわい)とともに洛門を巡視していた際、諸葛亮がすでに祁山に至ったことを知り、郭淮は馬遵に「これは善からぬことになるぞ!」と言い、車を駆って東の上邽へ戻った。馬遵は冀縣が西部に位置することを考え、また吏民が乱を起こすことを恐れて、郭淮に従って去った。姜維はかつて馬遵に冀縣へ戻るよう進言したが、馬遵は姜維らをみな「賊である」と疑い、各々離れ去った。姜維はやむを得ず、郡吏の上官子脩らとともに冀縣へ戻り、冀縣の吏民はこれを見て大いに喜び、彼らを推挙して諸葛亮に会わせた。二人はやむを得ず、ともに赴いた。諸葛亮は姜維に会って非常に喜んだ。しかし、亮の前鋒が張郃(ちょうこう)・費繇らに撃破された後、諸葛亮は姜維らを連れ帰り、姜維は冀縣へ戻ることができず、最終的に蜀へ入った。姜維の母と妻子は冀縣で魏軍に捕らえられたが、姜維にもともと去る意がなかったため、魏国はその家族を害することなく、ただその家族を保官につないで延命させた c:4291。これらの記載は、馬遵が諸葛亮の最初の北伐の間、属下への猜疑のために城を捨てて逃亡し、間接的に姜維の蜀への投降を招いたという史実を共に描き出している。

演義の記述(In the Novel)

『三国演義』においては、馬遵の人物像は多疑で決断に乏しく、讒言を信じる凡庸な太守として造形され、その出番は主に諸葛亮の第一次北伐(だいいちじほくばつ)の間に集中し、姜維との交流がその中心的な筋立てである。馬遵は第九十二回で初登場し、当時諸葛亮は南安を囲み、天水と安定の二郡の太守を引き出そうと意図していた。諸葛亮は天水太守が馬遵であることを知ると、計を設けて彼を城から誘い出した c:6781。

姜維は演義では馬遵の参軍であり、彼は諸葛亮が裴緒を遣わして偽りの降伏をさせる計略を見破り、この者は蜀将が魏将に偽装したもので、馬遵を城から誘い出し、虚に乗じて天水を攻め取る狙いだと指摘した c:15614。馬遵はこれを聞いて目を覚まし、姜維の智謀に深く感服した。続いて姜維はまた計を献じ、自分が精兵三千を率いて伏兵とし、馬遵が兵を率いて城を出た後、前後から諸葛亮を挟撃するよう進言した。馬遵は姜維の計を採り入れたが、諸葛亮はとうにすべてを見抜いており、趙雲(ちょううん)を遣わして伏兵とし、馬遵が城を出た後、虚に乗じて天水を襲い取った c:6782。

馬遵の多疑と軽信は演義でさらに誇張されている。夏侯楙(かこうぼう)が逃げ出した後、百姓に出会うと、彼らは姜維がすでに城を献じて蜀に降り、火を放って略奪していると言った。夏侯楙はこれを真に受け、天水城下に駆けつけた。馬遵がこれを聞くと、梁緒は姜維が偽りの降伏で夏侯楙を救おうとしているのではと疑ったが、夏侯楙は姜維がすでに降ったと言い張った c:15615。その夜、諸葛亮は人を遣わして姜維に扮させ城下で挑発させ、夏侯楙がかつて書を書いて自分に蜀へ降るよう教えたと称し、夏侯楙の背信を責めた。馬遵と夏侯楙は火光の中で真偽を見分けられず、いっそう姜維への疑いを深めた c:15615。

最終的に、諸葛亮は馬遵の姜維への猜疑を利用して離間の計を設けた。姜維は二通の密書を書いて城内へ射込み、馬遵と夏侯楙は梁緒・尹賞が姜維と通じていると疑い、二人を殺そうとした。梁緒・尹賞は消息を知ると、身を守るため、城門を開いて蜀軍に降伏した。馬遵と夏侯楙は慌てふためき、城を捨てて羌中へ逃げた c:6783。演義における馬遵は、自身の性格の欠陥によって最終的に城を失う反面の典型であり、史実における彼の逃亡の背景や原因とは異なっており、演義は事件の展開における彼の個人の性格の作用をより強調している。

主要な関係

* 姜維(enemy_of):史実では、馬遵の姜維への疑いと逃亡は、直接姜維を行き場のないものとし、最終的に諸葛亮に身を投じさせた c:4291。演義では、馬遵と姜維の関係はより複雑である。当初、姜維は馬遵の参軍であり、幾度も馬遵に計を献じ、諸葛亮の計略を見破り、その並外れた智謀を示した c:15614。しかし、馬遵の多疑と諸葛亮の離間の計のため、馬遵は最終的に姜維がすでに蜀漢に降ったと誤解し、城へ戻ろうとする姜維を射殺するよう命じさえした c:15616。この信任から猜忌へ、最終的に反目して仇となる関係は、演義における馬遵の人物造形の核心である。
* 曹魏(serves):馬遵は天水太守として、曹魏政権の涼州(りょうしゅう)地域における重要な官員であった。その職責は一方を鎮守し、外敵を防ぐことであった。しかし、諸葛亮の北伐の間、馬遵は職責を守れず、疑心のために城を捨てて逃亡し、曹魏の防衛線に隙間を生じさせた c:4291。演義では、馬遵の失城はさらに直接、天水・冀縣・上邽の三城の失陥を招き、曹魏に重大な損失を与えた c:6783。

象徴的な場面

* 維を疑い城を捨てる(史実):建興六年、諸葛亮の北伐の折、馬遵は巡視の途中で蜀軍の来襲を知り、各県が呼応していることを知った。彼は随行する姜維らに異心があると疑い、夜を徹して上邽へ逃亡し、姜維らを城外に拒み、間接的に姜維の蜀への投降を促した c:4291。これは馬遵が史料において最も重要な行動であり、直接姜維の運命に影響を与えた。
* 計にかかり城を失う(演義のみ):諸葛亮は離間の計を設け、偽の姜維を遣わして城下で挑発させ、夏侯楙がかつて書を書いて自分に蜀へ降るよう教えたと称し、馬遵と夏侯楙に姜維の忠誠を疑わせた c:15615。続いて諸葛亮はまた姜維の密書を利用し、馬遵の梁緒・尹賞と姜維が通じているという猜疑をさらに深めた。最終的に、梁緒・尹賞は身を守るため城を開いて降伏し、馬遵と夏侯楙は慌てふためき、城を捨てて羌中へ逃げた c:6783。この一連の出来事は馬遵の多疑と無能を示すとともに、諸葛亮の智謀を際立たせている。
* 姜維の入城を拒む(演義のみ):姜維は糧を奪うのに失敗した後、天水城へ戻ろうとしたが、城上の軍士が馬遵に報せると、馬遵はこれを姜維が城門を騙し取ろうとしているとみなし、乱箭を射下ろすよう命じ、姜維を門外に拒んだ c:15616。この場面は、馬遵の姜維への猜忌が頂点に達したことを深く描き、姜維が魏国へ戻る可能性を完全に断ち、姜維が最終的に諸葛亮に降伏する伏線を張った。

人間関係

3 件の関係

名言

全 4 件の台詞 · 厳選 2 件

「非伯約之言,則誤中奸計矣!」

演 第92回

馬遵が姜維に寄せる信頼を示す一節であり、その人物像の重要な一面である。

「此是姜維來賺我城門也。」

演 第93回

この言葉は馬遵が姜維の計略を見抜く洞察力を明かし、その軍事的判断を表している。

登場回3 回 ▸
  • 史ch.44
  • 演ch.92ch.93
関係の年表1 条 ▸

史 ch.44

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 城門が閉まる音は、今思い返しても、鈍い雷鳴のように響く。太守は外出中で、蜀軍が迫り、諸県が呼応したと聞くと、我らに謀反の心があるのではないかと疑い、夜のうちに上邽(じょうけい)へ退いて守りを固めた。私と諸吏が城下に駆けつけたときには、門はす
生涯の大事1 ▸