史載(Historical Record)
鄧羲、その生涯の事績は正史に記載が多くなく、主に劉表(りゅう ひょう)の治中であった時の諫言に見られる。『三国志(さんごくし)・巻6』の記載によれば、袁術(えんじゅつ)は南陽(なんよう)にあったとき、孫堅(そん けん)と連合して、劉表が管する荊州(けいしゅう)を攻め取ろうと企てた。孫堅は劉表を攻める際に流矢に当たって死に、袁術はこのために劉表に勝つことができなかった。後に、李傕(りかく)、郭汜(かくし)が長安(ちょうあん)を占拠し、援けを求めるために、劉表を鎮南将軍・荊州牧に任じ、成武侯に封じ、節を假した。漢の献帝が許昌(きょしょう)へ遷都したのち、劉表は使者を遣わして朝廷に貢いだものの、ひそかに北方の袁紹(えんしょう)と結んだ。このとき、鄧羲は劉表の治中として、劉表に対し、朝廷と袁紹の双方とこのような複雑な関係を保つべきではないと諫めた。しかし、劉表は鄧羲の建言を採らなかった。『漢晋春秋』の補記によれば、劉表は鄧羲に答えて「内には貢職を失わず、外には盟主に背かず、これ天下の達義なり。治中ひとり何ぞ怪しむや」と言った。鄧羲はその諫言が受け入れられぬのを見て、病を理由に官を辞して隠退し、劉表が没するまで再び出仕しなかった。その後、張済(ちょうさい)が兵を引いて荊州の境内に入り、穰城を攻めたが、これもまた流矢に当たって死んだ。荊州の官吏は皆劉表に祝いを述べたが、劉表は「済は窮して来たり、主人は無礼にして、交鋒に至る、これ牧の意にあらず、牧は弔を受くるも、賀を受けず」と言った。彼はまた人を遣わして張済の部衆を収め、これらの部衆を心服させた。後に、長沙(ちょうさ)太守の張羡が劉表に叛き、劉表は連年攻めたが落とせなかった。張羡が病死すると、長沙はまたその子の張懌を擁立した。劉表はそこで張懌を攻め併せ、南に零陵(れいりょう)、桂陽郡(けいようぐん)を収め、北に漢川を占め、荊州の地は数千里、帯甲十余万に及んだ。州内の群寇を平定したのち、劉表はさらに学館を開き、儒士を募り、綦毋闓、宋忠(そうちゅう)らに命じて五経の章句を編ませ、いわゆる「後定」を成した。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』においては、目下のところ鄧羲に関する独立した章や顕著な描写はない。鄧羲は演義において独立した筋や対話をもつ人物として造形されていない。したがって、演義には鄧羲の文学的造形はなく、その史伝の記載との乖離を論じることもできない。彼は劉表集団(りゅうひょうしゅうだん)の一員として、史料に記載されたその諫言の事績も、演義では言及されたり詳しく展開されたりしていない。したがって、鄧羲は演義においては史に明記のない人物であり、その像と役割は文学的に再創作されていない。
重要な関係
* 劉表集団(senior_official):鄧羲は劉表の手下の治中であり、劉表集団の核心的な幕僚の一人に属する。彼はかつて劉表に諫言しており、これは彼が劉表集団における地位と職責を反映している。その諫言は採られなかったものの、治中という身分は、彼が劉表政権において重要であったことを示している。
象徴的な場面
* 劉表に諫言する:鄧羲が最もよく知られる場面は、劉表に諫言したことである。当時、劉表は朝廷に貢ぐと同時に袁紹とも結んでおり、鄧羲はこの挙を不当と考えて、劉表に率直に諫言した。劉表のこれへの答えは「内には貢職を失わず、外には盟主に背かず、これ天下の達義なり。治中ひとり何ぞ怪しむや」であった。鄧羲は劉表が忠告を聞かぬのを見て、病を理由に官を辞して隠退し、劉表が没するまで再び出仕しなかった。この場面は鄧羲の正直さと時局への判断を示すとともに、劉表の政治的戦略における頑なさをも反映している。
人間関係
0 件の関係
无
登場回1 回 ▸
- 史ch.6
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は鄧羲である。字は考証できない。治中として州府の間にあって職務を担い、上は州牧の意向を受け、下は郡県の実情を探り、事に当たっては是非を述べるべきであり、ただ従順な言葉を並べるべきではなかった。昔、袁術(えんじゅつ)が南陽(なんよう)にいた