言語
孫

司馬氏(しばし) · 骠骑将军、仪同三司

孫秀(そん しゅう)

字 彥才

登場回
2
台詞の記録
1
人間関係
0
内面の独白
1

史書の記録(Historical Record)

孫秀(そん しゅう)は、字を彦才といい、東呉の宗室の一員で、その父は孫泰である。孫泰は嘉禾三年(234年)に孫権(そん けん)に従って新城を囲んだ際、不幸にも流矢に当たって身亡した。孫秀はその父の軍事的才能と地位を継ぎ、官は前将軍、夏口督に至り、夏口(かこう)という軍事の要地を鎮守し、重兵を手中に握った。

公室の至親として、孫秀の地位と権力は呉の末帝である孫皓(そん こう)の猜疑を引き起こした。孫皓は生まれつき多疑で、外にあって兵権を握る宗室の一員に対し蟠りを抱いていた。建衡二年(270年)、孫皓は何定に五千人を率いて夏口へ狩猟に赴かせた。これに先立ち、民間ではすでに孫秀が不測に遭うかもしれないという流言があった。何定のこの遠猟の挙は、孫秀の恐慌を募らせた。孫秀は孫皓のこの挙が自分を図るためだと考え、そこでその夜のうちに妻子および親兵数百人を携えて慌ただしく晋朝に投じた。

孫秀は晋に投じた後、晋朝の厚遇を受けた。晋の武帝である司馬炎(しばえん)は彼を驃騎将軍、儀同三司に任じ、会稽(かいけい)公に冊封した。『晋諸公賛』の記載によれば、呉国が平定された後、孫秀の官職には調整があり、伏波将軍に降ったが、なお開府の待遇を享受した。永寧年間、孫秀は世を去り、驃騎、開府を追贈された。彼の子である孫俭は、字を仲節といい、官は給事中に至った。

孫秀は晋朝にあって、かつて故国への複雑な情を示した。彼は孫皓が降ったとの知らせを得たとき、群臣はみな祝賀したが、ただ孫秀だけは病と称して祝賀に加わらず、かえって南に向かって涙を流し哭泣して、嘆いて言った、「昔、討逆は弱冠にして一校尉をもって創業した。いま後主は江南を挙げてこれを棄てた。宗廟山陵は、ここにおいて墟となった。悠悠たる蒼天、これ何人ぞや」。朝廷はこれによりその忠義の情を称美した。

演義の記述(In the Novel)

『三国演義』において、孫秀の姿は主に呉国滅亡の際に集中し、その晋朝に降った筋立ては史実とおおむね合致するが、重点が異なっている。『演義』は孫秀が晋に投じる前の具体的な原因や過程を詳しく描かず、直ちに彼を晋朝の一員として登場させている。

『三国演義』第百二十回において、晋朝の大軍が東呉を攻め滅ぼし、王濬(おうしゅん)が表を上げて勝報を伝え、朝廷の君臣がみな大いに喜んだとき、孫秀は驃騎将軍として、その振る舞いがとりわけ人目を引いた。彼は退朝した後、南に向かって痛哭し涙を流し、史書の記載に似た感慨を発した、「昔、討逆は壮年にして、一校尉をもって基業を創立した。いま孫皓は江南を挙げてこれを棄てた。悠悠たる蒼天、これ何人ぞや」。この場面は『演義』においてより劇的に描かれ、孫秀が孫氏の宗親として、呉国滅亡への悲痛と無奈、ならびに孫皓の昏庸無能への強烈な譴責を際立たせている。史書の記載に比べ、『演義』は孫秀の「忠義」と「悲情」を重点的に強調し、その像をより感染力のあるものとし、また間接的に孫皓の失徳をも批判している。

主要な関係

* 孫泰(parent_of):孫秀の父で、新城を囲んだ際に流矢に当たって身亡した。
* 司馬氏(しばし)(defected_to):孫秀は孫皓の猜疑を恐れ、家眷および親兵を携えて晋朝に投じ、晋の武帝である司馬炎の重用を受け、驃騎将軍、儀同三司、会稽公に封ぜられた。
* 孫皓(宗室関係であり、同時にその晋に投じた原因):孫皓の孫秀への猜疑は、孫秀が晋朝に投じる直接の原因となった。

象徴的な場面

* 夏口に驚いて奔る:孫秀は孫皓の猜疑、加えて民間の流言と何定が兵を率いて夏口へ狩猟に来た挙により、深く不安を覚え、そこで夜のうちに妻子と親兵数百人を率いて晋朝に投じた。これは孫秀の人生における重大な転換点であり、彼と東呉政権との徹底的な決裂を画するものである。
* 南に向かって涙を流す:晋朝が東呉滅亡を知った後、群臣はみな祝賀したが、ただ孫秀だけは病と称して加わらず、かえって南に向かって痛哭し涙を流し、孫氏の基業の覆滅と孫皓の無能を嘆いた。この場面は『三国演義』においても生き生きと描かれ、孫秀の人物像において最も代表的な時となり、彼の故国への複雑な情と宗室の情懐を示している。

人間関係

0 件の関係

无

台詞

  • 演 ch.120 §43

    「昔討逆壯年,以一校尉創立基業,今孫皓舉江南而棄之,悠悠蒼天,此何人哉!」

登場回2 回 ▸
  • 史ch.51
  • 演ch.120
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 我、孫秀(そん しゅう)、字は彦才(げんさい)。この時、江南はすでに晋に帰し、呉国往日の旗印も、城府も、兵も、たちまち故国の遺事となった。史書には、私が驃騎将軍として、退朝後に南を向いて泣いたとだけ記されている。この涙は、己の官位のためでも