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王雙

王雙の肖像
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王双(おうそう)は魏の将軍で、かつて常雕とともに中洲(ちゅうしゅう)を襲撃し、朱桓(しゅかん)に生け捕りにされた。

正史 『三国志』巻56 · 演義 1回

出典

原典に王雙が登場する箇所

  • 正史 · 巻 56『三国志』

    …仁果遣其子泰攻濡須城,分遣將軍常雕督諸葛虔、王雙等,乘油船別襲中洲。…
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    黃武元年,魏使大司馬曹仁步騎數萬向濡須,仁欲以兵襲取州上,偽先揚聲欲東攻羨溪;桓分兵將赴羨溪,既發,卒得仁進軍拒濡須七十里問。桓遣使追還羨溪兵,兵未到而仁奄至。時桓手下及所部兵,在者五千人,諸將業業,各有懼心,桓喻之曰:「凡兩軍交對,勝負在將,不在眾寡。諸君聞曹仁用兵行師,孰與桓邪?兵法所以稱客倍而主人半者,謂俱在平原。無城池之守,又謂士眾勇怯齊等故耳。今人既非智勇,加其士卒甚怯,又千里步涉,人馬罷困,桓與諸軍。共據高城,南臨大江,北背山陵,以逸待勞,為主制客,此百戰百勝之勢也。雖曹丕自來,尚不足憂,況仁等邪!」桓因偃旗鼓,外示虛弱,以誘致仁。仁果遣其子泰攻濡須城,分遣將軍常雕督諸葛虔、王雙等,乘油船別襲中洲。中洲者,部曲妻子所在也。仁自將萬人留橐皋,復為泰等後拒。桓部兵將攻取油船,或別擊雕等,桓等身自拒泰,燒營而退,遂梟雕,生虜雙,送武昌,臨陳斬溺死者千餘。權嘉桓功,封嘉興侯,遷奮武將軍,領彭城相。

  • 演義 · 第 85 回『三国志演義』

    …忽報曹仁令大將常雕同諸葛虔、王雙,引五萬精兵飛奔濡須城來。眾軍皆有懼色。…
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    卻說吳將朱桓,年方二十七歲,極有膽略,孫權甚愛之;時督軍於濡須,聞曹仁引大軍去取羨溪,桓遂盡撥軍守把羨溪去了,止留五千騎守城。忽報曹仁令大將常雕同諸葛虔、王雙,引五萬精兵飛奔濡須城來。眾軍皆有懼色。 桓按劍而言曰:「勝負在將,不在兵之多寡。兵法云;『客兵倍而主兵半者,主兵尚能勝於客兵。』今曹仁千里跋涉,人馬疲困。吾與汝等,共據高城,南臨大江,北背山險,以逸待勞,以主制客:此乃百戰百勝之勢。雖曹丕自來,尚不足憂,況仁等耶?」於是傳令,教眾軍偃旗息鼓,只作無人守把之狀。

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人物像

性格
王双(おうそう)は魏の将軍で、かつて常雕とともに中洲(ちゅうしゅう)を襲撃し、朱桓(しゅかん)に生け捕りにされた。
逸話
『演義』には、王双(おうそう)が常雕とともに濡須(じゅしゅ)を攻めたと記されている。

王双(おうそう)は魏の将であり、濡須口の戦い(じゅしゅこうのたたかい)に参加し、『三国志(さんごくし)』巻五十六および『三国演義』第八十五回に記されている。

事績

史書によれば、黄武元年、王双は常雕、諸葛虔とともに油船に乗り、中洲を襲撃したが、朱桓(しゅかん)に生け捕られ、武昌(ぶしょう)へ送られた。
『三国演義』では、王双は常雕、諸葛虔に従い、軍を率いて濡須城を攻めた。(演義)

関係

  • 常雕、諸葛虔とともに中洲を襲撃した(史書)
  • 朱桓に捕らえられた(史書)

人間関係

1 件の関係

王雙 の人物関係図朱桓王雙
  • その他
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出来事

関わった出来事(1)

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戦い

濡須口の戦い

続けて読む

最後の場面:濡須口の戦い

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内面の独白 · AI 生成1 編 ▸
  • 私は王双(おうそう)と申します。黄武元年、曹仁(そうじん)の軍に従って濡須(じゅしゅ)へ赴き、命を受けて常雕とともに油船に乗り、中洲を別働隊として襲撃しました。当時、私が知っていたのは、軍令が示す進路と、水上を進む船の動きだけでした。濡須城