史載(Historical Record)
諸葛尚(しょかつしょう)の史料の記載については、現在考証しうる正史の中に直接の言及はなく、したがってその生涯の事績は史学界において確たる史伝資料の裏付けを欠いている。
演中(In the Novel)
羅貫中『三国(さんごく)演義』の文学的造形においては、諸葛尚は諸葛瞻(しょかつせん)の子として、蜀漢(しょくかん)後期において重要な役割を演じており、とりわけ鄧艾(とうがい)の伐蜀を防ぐ戦役においてそうである。演義において、諸葛尚が初めて登場するのは第117回で、時に十九歳であった。彼は「兵書を博覧し、武芸を多く習う」青年の将として描かれている。後主の劉禅(りゅう ぜん)が諸葛瞻を召して敵を退ける策を議した際、諸葛瞻は自ら兵を率いて迎え撃つことを決めた。諸葛瞻が誰か先鋒となる者はいるかと問うた際、諸葛尚は進み出て、自ら従軍を願い出て、その年若く血気盛んな様と報国の心を示した。諸葛瞻はこれを大いに喜び、そこで諸葛尚を先鋒に命じ、大軍を率いて成都(せいと)を出て魏兵を迎え撃たせた。
綿竹(めんちく)関の戦いにおいて、諸葛瞻は援兵が至らなかったため、軍を率いて城を出て鄧艾と決死の一戦を交えることを決めた。彼は諸葛尚と尚書の張遵(ちょうじゅん)を残して城を守らせ、自らは甲冑を着けて出陣した。しかし、諸葛瞻は最終的に敵軍の包囲の中で力尽きて戦死した。諸葛尚は城上で父の戦死を目撃すると、勃然として大いに怒り、張遵の制止も顧みず、悲憤して言った、「我が父子・祖孫は、国の厚恩を荷う。今、父はすでに敵に死せり、我なんぞ生くるを用いんや!」と。そして、彼は馬を駆って敵陣に斬り込み、最終的に彼もまた壮烈に沙場に散った。演義は諸葛尚という人物の造形を通じて、蜀漢末年の将士たちの国のために忠を尽くし、死を見ること帰するがごとき悲壮な情懐を大いに描き出し、また諸葛亮(しょかつりょう)の一脈の忠義の精神を継承させている。
主要な関係
* 諸葛瞻(parent_of):諸葛尚は諸葛瞻の長子である。演義では、父子二人は魏軍を防ぐ戦いにおいて並んで戦い、最終的にともに国に殉じて、深い父子の情と共通の報国の志を示した。
* 蜀漢(dies_in):諸葛尚は蜀漢のために戦い、最終的に綿竹関の戦いにおいて戦死し、身をもって国に殉じて、その蜀漢への忠誠を体現した(演義独自)。
象徴的な場面
諸葛尚の象徴的な場面は、綿竹関の戦いにおける彼の勇敢な働きと悲壮な結末に集中して体現されている。鄧艾の大軍が境に迫り、成都が危急に瀕した時、後主の劉禅は諸葛瞻を召して対策を議した。諸葛瞻は自ら兵を率いて迎え撃つことを決意し、誰か先鋒となる者はいるかと問うた。この時、わずか十九歳でありながら「兵書を博覧し、武芸を多く習う」諸葛尚が進み出て、自ら従軍を願い出て、父の諸葛瞻によって先鋒に任命された。
しかし、最も心を打つ場面は、諸葛尚が父の諸葛瞻が沙場に戦死したのを目撃した後のことにほかならない。城上で、彼は父が力尽きて自刎したのを目の当たりにし、悲憤交々であった。尚書の張遵が軽挙妄動せぬよう制止したものの、諸葛尚は「我が父子・祖孫は、国の厚恩を荷う。今、父はすでに敵に死せり、我なんぞ生くるを用いんや!」という悲嘆を発した。この台詞は、諸葛亮の後裔としての諸葛尚の責任感と忠義の精神を深く明らかにしている。そして、彼は毅然として馬を駆って敵陣に斬り込み、最終的に彼もまた乱軍の中に壮烈に散った。この場面は、諸葛尚の個人の勇敢さを示すのみならず、諸葛家の世代にわたる忠良の人物像を昇華させており、『三国演義』における蜀漢末年の悲劇的英雄群像の重要な一部となっている。
人間関係
1 件の関係
台詞
- 演 ch.117 §15→ 諸葛瞻(しょかつせん)📍 成都(せいと)
「父親既掌大權,兒願為先鋒。」
- 演 ch.117 §23→ 張遵(ちょうじゅん)
「吾父子祖孫,荷國厚恩,今父既死於敵,我何用生為!」
登場回1 回 ▸
- 演ch.117
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は諸葛尚(しょかつしょう)、年はまだ十九。父に従い、兵を率いて成都(せいと)を出た。出立に際し、父が諸将に「誰か先鋒を務める者はいるか」と問うと、私は進み出て志願した。「父上は大権をお持ちです。私が先鋒を務めます」。行く手が険しいと知らな
生涯の大事1 ▸
- 0263-01-01 · 綿竹(めんちく)綿竹の戦い(めんちくのたたかい)· 戦死