戦略的背景
建興六年(228年)春に行われた第一次北伐(だいいちじほくばつ)は、蜀漢(しょくかん)が夷陵(いりょう)の敗北以来初めて能動的に打って出た反攻作戦である。諸葛亮(しょかつりょう)は漢中(かんちゅう)から祁山(きざん)を経て隴右へ進軍する経路を選び、まず隴右五郡(隴西・南安・天水・安定・広魏)を前進基地として奪取したうえで、隴地から関中を脅かすという構想を描いていた。この経路は、魏国が関中正面(陳倉(ちんそう)・長安(ちょうあん)一線)に集結させた主力を避け、隴山の天険を利用して魏の主力を関中と隴西の二部に分断するという、精緻に計算された戦略布陣であった。開戦当初の展開は非常にうまくいった。南安・天水・安定の三郡が風を見て降伏し [c:17630][c:17634]、魏国では「朝臣未知計所出」(廷臣たちは対処の術を見出せず)[c:17630]、「朝野恐惧、隴右、祁山尤甚」(朝野ともに恐怖し、隴右・祁山一帯ではとりわけ甚だしかった)[c:17634] という状況となり、魏明帝みずから長安に赴いて督戦に当たった。しかし、この戦略全体の重心は一つの具体的な地点——街亭(がいてい)——に集約されていた。街亭は隴山東麓に位置し、隴右と関中を結ぶ咽喉の要衝である。この隘路が蜀の手にある限り、魏の関中援軍は上ってこられず、降伏した三郡の帰附を固める時間を確保できる。だが街亭が失われれば隴右と関中は再びつながり、後路を断たれた三郡も崩壊する。諸葛亮の全体戦略は合理的なものであったが、その合理性のすべてが一点に圧縮されていた。
双方の布陣
魏方の布陣において、真の統帥は張郃(ちょうこう)であった。三国志(さんごくし)には明文で「右将軍張郃が街亭において亮を攻撃し、これを大破した」[c:17630]、「亮の将・馬謖(ばしょく)を街亭で迎え撃った。謖は南山の険しい地形に拠り、城に下りて守ろうとしなかった。郃はその水路を断ち、攻撃してこれを大破した」[c:17631] とある。張郃はこの時点で曹魏(そうぎ)に残る旧来の名将の一人であり、黄初年間以来ずっと独自の判断で戦場に当たってきた人物で、隴山の地形と西北辺軍の実情を熟知していた。曹真(そうしん)が関右全体を統督し、張郃が最前線専任という組み合わせは、魏国として出せる最強の布陣であった。蜀方の布陣で最大の論争を呼んだのは、先鋒の人選である。「時に宿将・魏延(ぎえん)・呉壱(ごいつ)らがおり、論者はみな先鋒とすべきと言った」[c:17636] にもかかわらず、諸葛亮は衆議に反して馬謖を抜擢した。馬謖は才気と器量に優れ謀議を得意とし、南征の前には「攻心為上」という著名な策を献じたこともあった [c:17636]。しかし大兵団の野戦を一人で指揮した経験はまったくなかった。先主・劉備(りゅうび)は臨終の際に諸葛亮に「馬謖は言過其実にして、大いに用うるべからず」と戒めていたが [c:17636]、当時の諸葛亮はそれを信じていなかった。副将として随行した王平(おうへい)の役割は馬謖の決断を牽制し副の判断を提供することにあり、高翔(こうしょう)が柳城(りゅうじょう)に屯して側面支援し、魏延が街亭後方に屯して応援する三層構造は(演義の記述による)[c:17644]、きわめて堅実な設計であった。問題は先鋒部分にあった。馬謖は街亭に着くと道を捨てて南山に上がり、王平が当道に陣を敷くよう進言したのを否定した [c:17645]。
決定的な判断分岐
この戦役の勝敗はじつのところ、馬謖が水を捨てて山に上った、その一点の決断に集約されている。軍事地理の観点からすれば、街亭の核心的機能は「道を塞いで魏軍を通させない」ことにある。したがって正しい戦術は当道に布陣して陣地を構築し、隴山東麓の通路を遮断することであった [c:17645]。馬謖が選んだのは「高所を占めて下を見下ろす」形で山中に布陣することであり、その背後にある論理は、街亭を「要路の拠点」ではなく「野戦の伏撃場」として再定義し、高所から一撃で敵を破ることへの期待であった。これは「自分が得意とする手法を、任務本来の要求に代替させた」典型的な誤りであった。彼は自分の得意とする「奇謀」の論理を、本来は「工兵的阻撃」を実行すべき地点に当てはめてしまったのである。張郃は看破したうえで極めて正確に反応した。山頂を強攻するのではなく、水路を断ったのである [c:17631]。山上の水が絶えると、蜀軍はたちまち「軍不得食、寨中大乱」[c:17648] となり、戦闘による損耗よりも士気の崩壊の方が速かった。これは山上に布陣したあらゆる部隊に当てはまる鉄則である。山頂は高地という優位をもたらすが、補給上の劣位でもある。時間が包囲する側に味方する限り、山上の部隊は封じられたも同然である。馬謖の過ちは戦術の細部にあったのではなく、街亭というこの陣地が担う戦略的任務を理解していなかったことにある。要求されていたのは「在ること」であって「勝つこと」ではなかった。王平の処置はまた別の水準を示した。馬謖が敗走した後、王平は麾下の千人をもって太鼓を打ち鳴らして自陣を保ち、ゆっくりと諸営の落伍兵を収容した。張郃は伏兵を疑って迂闊に迫れなかった [c:17638]。同じ地形、同じ兵力比のもとで、用兵を知る者は「撤退」を「整然とした全員無事の退却」へと変えることができるのである。
結果と波紋
街亭が失われるや、第一次北伐(だいいちじほくばつ)の全体が即座に崩壊した。諸葛亮はやむなく西県の千余家を引き連れて漢中(かんちゅう)へ退いた [c:17635]。三郡は得て再び失い——「南安・天水・安定郡は亮に応じて反旗を翻していたが、郃はみなこれを破り平定した」[c:17631]。漢中に戻った諸葛亮は三つのことを行った。第一に、馬謖および張休(ちょうきゅう)・李盛を斬り、黄袭らの兵権を奪った [c:17638]。自ら選んで起用した者が失敗した場合、最も厳しい軍法で臨まなければ、「衆議に反して用いた」責任を担うことにならない。馬謖は臨終に「謖は明公を父と仰ぐ。鯀を誅して禹を興した義の深さをどうかよく思いめぐらしてほしい」という書を送ってきた [c:17636]。諸葛亮は自ら臨祭し、遺孤を平素と変わらず遇したが、法には一切の容赦がなかった。第二に、自ら上疏して三等の降格を請い、その失策の責を自らに帰した [c:17635]。「衆議に反して馬謖を用いた」責任を己に引き受けることで、下層の指揮官への責任追及が広がるのを防いだのである。第三に、成果を上げた下層の者を登用した。王平は特別に顕彰され、参軍に任じられ、五部を統率して営事を兼務し、討寇将軍に進み、亭侯に封じられた [c:17638]。この一連の処置が軍心を安定させた。「こうして微功を審査し、壮烈な者を顕彰し、みずから過ちを引き受け、その失策を天下に布告し、兵を練り武を講じて後図とし、戎士は精練され、民はその敗を忘れた」[c:17635]。しかし戦略レベルの損失は取り返しがつかなかった。魏国はこの時から蜀漢(しょくかん)の北伐に対して十分な警戒体制を敷くようになり、魏明帝は事後に露布を天下に下して「亮也小子、震驚朕師」と宣し [c:17630]、六年のうちに隴右防線を再建した。これにより、その後の諸葛亮の第二・三・四・五次北伐では「三郡が風を見て降伏する」という奇効を再現することが難しくなった。
反実仮想の検討
反実仮想として展開する価値があるものは二つある。第一:もし諸葛亮が衆議に従い、魏延(ぎえん)か呉壱(ごいつ)を先鋒にしていたならば、結果はどうなっていたか。魏延は当時漢中(かんちゅう)の要職にあり、蜀漢(しょくかん)軍中で最も苦戦に耐えられる将領であった。彼が街亭(がいてい)に赴いたなら、ほぼ確実に当道に布陣を選んだはずだ(魏延の一貫したスタイルは要点を固守して軽々しく動かないことである)。張郃(ちょうこう)が彼を迂回したとしても、隴道を断つことはできない。第一次北伐の最悪の結果は「隴右を取れないが街亭は守れる」というものになり、三郡が蜀に帰するかどうかは争いがあるとしても、戦略全体が崩壊するには至らなかったはずである。諸葛亮が衆議に反して馬謖を用いた真の動機は、独自に大局を担える「後継者型の謀士」を育てたいという意図にあった。その動機そのものは間違っていないが、試練の場を誤ったのである。第二:もし馬謖が街亭(がいてい)で王平(おうへい)に従い当道に布陣していたなら、魏軍に迂回されたとしてもどうなっていたか。実際のところ張郃(ちょうこう)は迂回しなかったはずだ。街亭を迂回するということは、兵站線を蜀軍に委ねることを意味し、そのリスクを冒すことはなかった。最も可能性の高い結末は、張郃と馬謖が街亭一線で十余日にらみ合い、その間に諸葛亮の祁山(きざん)主力が隴右を固め、戦線を隴関一帯まで押し進め、第一次北伐は少なくとも隴西郡を永続的な拠点として確保できたというものである。この二つの反実仮想はいずれも同じ判断を指し示している。街亭の戦い(がいていのたたかい)の敗北は実力の劣後ではなく、人の使い方における一種の構造的な食い違いであった。諸葛亮は「挙措が煩雑な」人材を「挙措を要しない」場所に配置したのである。この点を理解してこそ、なぜ彼がその後これほど厳酷な後始末を行ったかが理解できる。馬謖個人を罰するためではなく、蜀漢(しょくかん)の全軍政体制に向けて「衆議に反して人を用いた代償は統帥が自ら担い、執行の失敗の代償は当事者が担う」と宣告するためであった。これは諸葛亮が法をもって国を治めた象徴的な瞬間であり、また彼個人の政治生涯において最も重い「自己糾正」の一幕でもあった。
