言語
吳

吳綱

登場回
1
台詞の記録
1
人間関係
1
内面の独白
1

史書の記載(Historical Record)

吳綱なる者は正史において明確な記載がなく、その生涯の事跡・官職、および諸葛誕(しょかつたん)らとの関係は、『三国志(さんごくし)』等の史伝材料にいずれも言及がない。したがって、吳綱に関する史実情報は空白であり、客観的な陳述を行うことはできない。

演義の記述(In the Novel)

『三国演義』において、吳綱は諸葛誕の麾下の長史として登場し、その主要な事跡は諸葛誕が兵を起こして司馬昭(しばしょう)に反抗することをめぐって展開する c:961。諸葛誕は司馬昭の専権に不満を抱き、かつ賈充(かじゅう)の密告により司馬昭が自らを洛陽(らくよう)へ召し戻してその兵権を削ごうと企図していることを知り、揚州刺史の楽綝のもとで司馬昭の密書を知るや、怒って楽綝を殺し、兵を起こして魏に反することを決した c:961。

この決定的な時に、諸葛誕は東呉の軍事的援助を求めるため、長史の吳綱を遣わして自らの子諸葛靚(しょかつせい)を東呉へ護送し人質とした c:961。吳綱は重任を担い、諸葛靚を石頭城へ連れて行き、当時の東呉の丞相孫綝に拝謁した c:9156。孫綝との会見において、吳綱は諸葛誕が兵を起こした事由を詳しく述べ、諸葛誕はもと蜀漢(しょくかん)の諸葛武侯の族弟であり、司馬昭が君を欺き上を罔い、主を廃して権を弄するに不満を抱いたゆえに兵を起こして討伐するものの、力足らざるがゆえに特に帰降に来たり、諸葛靚を質として、東呉に発兵の助けを請うのだと強調した c:9156。

孫綝は吳綱の陳述を聴いたのち、諸葛誕の請いを受け入れ、ただちに大将の全懌・全端(ぜんたん)を主将とし、於詮を合後とし、朱異(しゅい)・唐咨(とうし)を先鋒とし、文欽(ぶんきん)を郷導として、七万の大軍を率い、三路に分かれて寿春(じゅしゅん)へ進発させた c:9156。吳綱は使命を果たしたのち、寿春へ戻って諸葛誕に東呉の発兵の吉報を報告し、諸葛誕を大いに喜ばせ、ただちに兵力を配備して迎撃の準備をさせた c:9156。演義において、吳綱の人物像は忠誠かつ有能な使者であり、諸葛誕と東呉との連絡において極めて重要な役割を果たし、諸葛誕の司馬昭反抗の軍事行動の展開を推し進めた。

主要な関係

* 諸葛誕(仕える対象):吳綱は『三国演義』において諸葛誕の長史であり、忠誠を尽くして諸葛誕のために働いた。諸葛誕が兵を起こして司馬昭に反抗する決定的な時に、吳綱は重任を委ねられ、東呉への援軍要請を担った c:961。
* 諸葛靚(護送対象):吳綱は諸葛誕の子諸葛靚を東呉へ護送して人質とし、東呉の出兵援助を成立させようとした c:961。
* 孫綝(交渉対象):吳綱は諸葛誕を代表して東呉の丞相孫綝と交渉し、孫綝を説得して諸葛誕への発兵を成功させた c:9156。

象徴的な場面

* 命を奉じて東呉へ使いし援軍を請う:諸葛誕が兵を起こして司馬昭に反したのち、外部の援助を得るため、長史の吳綱を遣わしてその子諸葛靚を東呉へ護送し、人質として援軍を求めた c:961。これは吳綱が演義において初めて、かつ最も鍵となる登場であり、その後の東呉援軍の到来を直接に推し進めた。
* 孫綝を説得して発兵させる:吳綱は東呉の石頭城に到り、丞相孫綝に拝謁し、諸葛誕が魏に反する理由を詳しく陳述し、諸葛靚を質として、孫綝を説得して七万の援兵を諸葛誕に向けて発兵させることに成功した c:9156。この場面は吳綱の弁舌と外交能力を示し、東呉の軍事介入を直接に成立させ、諸葛誕の軍事行動に深遠な影響を与えた(演義独自)。
* 寿春へ戻って捷報を伝える:吳綱は使命を果たしたのち、寿春へ戻って諸葛誕に東呉がすでに発兵して助けることになった喜報を報告し、諸葛誕を大いに喜ばせ、ただちに兵を陳ねて準備させた c:9156。この場面は吳綱の任務の円満な完了を示し、また寿春の戦いの全面的な勃発を予示するものでもある(演義独自)。

人間関係

1 件の関係

台詞

  • 演 ch.111 §11→ 孫綝(そん ちん)

    「諸葛誕乃蜀漢諸葛武侯之族弟也,向事魏國;今見司馬昭欺君罔上,廢主弄權,欲興師討之,而力不及,故特來歸降。誠恐無憑,專送親子諸葛靚為質。伏望發兵相助。」

登場回1 回 ▸
  • 演ch.111
関係の年表1 条 ▸

演 ch.111

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は呉綱(ごこう)。命を受け、幼主の諸葛靚(しょかつせい)を伴って呉へ赴き、人質として差し出した。懸かっていたのは、私一人の安危ではない。寿春(じゅしゅん)に屯田する十余万の民、降ったばかりの四万余の兵、そして我が主・諸葛誕(しょかつたん)