史載(Historical Record)
蔣斌(しょうひん)は、蜀漢(しょくかん)後期の将であり、その父は蔣琬(しょうえん)である。蔣琬(しょうえん)が没した後、蔣斌(しょうひん)はその爵位を継ぎ、綏武将軍・漢城護軍となった。景耀六年(西暦263年)、魏の大将軍・鍾会(しょうかい)が軍を率いて蜀を伐ち、兵を漢城に臨ませた。鍾会(しょうかい)は蔣斌(しょうひん)の才幹と声望をよく知っており、わざわざ書を送った。その書には巴蜀の賢才への敬意が表され、蔣斌(しょうひん)を諸葛思遠(諸葛瞻(しょかつせん))と同類になぞらえ、言葉の端々に惺惺相惜の情がにじんでいた。鍾会(しょうかい)はまた、西行してここに至り、蔣斌(しょうひん)の父・蔣琬(しょうえん)の墓を瞻仰し清掃して敬意を示したいと述べた。蔣斌(しょうひん)は鍾会(しょうかい)の書を受け取ると、すぐに返書した。彼は書の中でまず鍾会(しょうかい)の父への敬意を肯定し、父・蔣琬(しょうえん)が病により涪県で逝去し、後にここに葬られたことを告げた。蔣斌(しょうひん)は書の中で、鍾会(しょうかい)のこの振る舞いを「予を視ること猶お父のごとし、顔子の仁なり」と感嘆し、鍾会(しょうかい)が父を敬重することへの感謝と感動を表した。
鍾会(しょうかい)は蔣斌(しょうひん)の返書を読み終えると、その情義を深く嘉した。鍾会(しょうかい)が涪県に到着すると、果たして書の通り、自ら赴いて蔣琬(しょうえん)の墓を祭拝した。後に、蜀漢(しょくかん)の後主・劉禅(りゅう ぜん)が鄧艾(とうがい)に降ると、蔣斌(しょうひん)は涪県へ赴いて鍾会(しょうかい)に拝謁した。鍾会(しょうかい)は朋友の礼をもって彼を遇し、蔣斌(しょうひん)への重んじを示した。しかし、鍾会(しょうかい)に従って成都(せいと)へ向かう途中、蔣斌(しょうひん)は不幸にも乱兵に遭って殺害された。蔣斌(しょうひん)の弟・蔣顯は、当時太子僕の職にあり、その才学のために鍾会(しょうかい)に愛されていたが、蔣斌(しょうひん)とともに乱兵の中で死んだ。
演義(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』においては、蔣斌(しょうひん)の形象は主として蜀漢(しょくかん)末年の魏国の蜀伐の鍵となる時期に現れる。彼は職務に忠実で、漢城を鎮守する重要な将として造形されている。姜維(きょうい)が沓中(とうちゅう)で魏軍の大挙進攻を知ると、彼は廖化(りょうか)・張翼(ちょうよく)・董厥(とう けつ)らに檄を伝えて来援させ、自ら兵力を部署して敵を迎えた。しかし、戦局は蜀漢(しょくかん)にきわめて不利であった。姜維(きょうい)が魏将の王頎・牽弘(けんこう)・鄧艾(とうがい)らと交戦している折、後方からは絶え間なく凶報が伝えられた。
『演義』の描くところでは、鍾会(しょうかい)が陽平関(ようへいかん)を攻め破った後、守将の蔣舒(しょうじょ)は降伏を選び、傅僉(ふせん)は勇ましく戦死した。続いて、楽城の守将・王含と漢城の守将・蔣斌(しょうひん)は、漢中(かんちゅう)がすでに失われたことを知ると、これもまた城を開いて降伏を選んだ。胡済(こ せい)は敵に抗しきれず成都(せいと)へ逃げ帰って援を求めた。この筋立ては史実の記載とは食い違っている。史実では、蔣斌(しょうひん)は鍾会(しょうかい)が兵を漢城に臨ませたとき、鍾会(しょうかい)と書信を往来させ、その忠義と父への敬重を示しており、城を開いて降伏したとは直接記されていない。むしろ史実では、蔣斌(しょうひん)は後主・劉禅(りゅう ぜん)が鄧艾(とうがい)に降った後、涪県へ赴いて鍾会(しょうかい)に拝謁し、最終的に成都(せいと)へ向かう途中で乱兵に殺されたと記されている。演義がこれを城を開いて降伏したと描いたのは、蜀漢(しょくかん)末年の大勢すでに去り、将たちがこぞって降伏する悲劇的な雰囲気を際立たせるためであるが、史実における蔣斌(しょうひん)の忠義の形象とは食い違いがある。
主要な関係
* 蔣琬(しょうえん)(父):蔣斌(しょうひん)は蜀漢(しょくかん)の重臣・蔣琬(しょうえん)の子であり、その爵位を継いだ。鍾会(しょうかい)が蜀を伐ったとき、わざわざ蔣斌(しょうひん)に書を送り、蔣琬(しょうえん)への敬意を表し、その墓を祭ることを請うた。
* 鍾会(しょうかい)(魏の大将軍):鍾会(しょうかい)は蔣斌(しょうひん)とその父・蔣琬(しょうえん)に対して大いなる尊重と賞賛を示した。彼はかつて蔣斌(しょうひん)に書を送り、自ら蔣琬(しょうえん)の墓を祭拝に赴いた。後主が降伏した後も、鍾会(しょうかい)は朋友の礼をもって蔣斌(しょうひん)を遇した。
* 蜀漢(しょくかん)(仕えた対象):蔣斌(しょうひん)は蜀漢(しょくかん)の綏武将軍・漢城護軍として、忠実に蜀漢(しょくかん)のために働いた。『演義』はその城を開いて降伏したと描くが、史実では後主が降伏した後にようやく鍾会(しょうかい)と接触し、最終的に乱兵に害されたのであって、自ら蜀漢(しょくかん)に背いたのではない(演義独自の筋立て)。
* 蔣顯(弟):蔣斌(しょうひん)の弟・蔣顯は、太子僕を務め、その才学のために鍾会(しょうかい)に賞識され、最終的に蔣斌(しょうひん)とともに乱兵の中で死んだ。
象徴的な場面
* 鍾会(しょうかい)の書と蔣斌(しょうひん)の返書:魏の大将軍・鍾会(しょうかい)が兵を漢城に臨ませたとき、わざわざ蔣斌(しょうひん)に書を送り、巴蜀の賢士への敬意を表し、蔣斌(しょうひん)の父・蔣琬(しょうえん)の墓を祭ることを請うた。蔣斌(しょうひん)は返書し、言葉は懇切で、鍾会(しょうかい)を「予を視ること猶お父のごとし、顔子の仁なり」と感嘆した。この往来は、蔣斌(しょうひん)の忠義と鍾会(しょうかい)の器量を示すとともに、戦乱の中の人と人との交わりに一抹の温情を添えた。
* 鍾会(しょうかい)が蔣琬(しょうえん)の墓を祭拝する:鍾会(しょうかい)は蔣斌(しょうひん)の返書を得た後、果たして涪県に到着した際、自ら蔣琬(しょうえん)の墓を祭拝に赴き、その約束を果たした。この振る舞いは、鍾会(しょうかい)の信義を体現するのみならず、蔣琬(しょうえん)が当時の士人の心中に占めた地位、そして蔣斌(しょうひん)がそれによって受けた尊重を側面から反映している。
* 漢城が門を開いて降伏する:『三国(さんごく)演義』においては、姜維(きょうい)が沓中(とうちゅう)で苦戦し、漢中(かんちゅう)が失われたことを知ると、流星馬が「楽城の守将・王含、漢城の守将・蔣斌(しょうひん)、漢中(かんちゅう)すでに失われしを知り、亦た門を開きて降る」と報じた。この筋立ては演義において蜀漢(しょくかん)の大廈の傾かんとする徴の一つであり、史実とは食い違いがあるものの、文学上、蜀漢(しょくかん)末年の諸将士が絶望に直面した際の無奈と悲涼を強めている(演義独自)。
* 乱兵に死す:後主・劉禅(りゅう ぜん)が鄧艾(とうがい)に降った後、蔣斌(しょうひん)は涪県へ赴いて鍾会(しょうかい)に拝謁し、鍾会(しょうかい)に従って成都(せいと)へ向かった。しかし、成都(せいと)城内で、蔣斌(しょうひん)は不幸にも乱兵に遭い、最終的に殺害された。その弟・蔣顯も同時に害された。この結末は、史実であれ演義であれ、乱世の中では、人に敬重される賢士といえども兵禍を逃れがたいという悲劇的な運命を描き出している。
人間関係
1 件の関係
友人1
登場回2 回 ▸
- 史ch.44
- 演ch.116
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 漢城(かんじょう)の城門が開いたと知り、私はようやく大勢はすでに決したのだと悟った。前には鍾会(しょうかい)がおり、漢中(かんちゅう)はすでに失われ、成都(せいと)からの知らせも遠い。城を守る責務を負うこの段階で、憤りに任せて、まだ転機があ
生涯の大事1 ▸
- 0262-01-01 · 祁山(きざん)姜維の後期北伐(きょういのこうきほくばつ)· 武将