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曹休(そうきゅう)

曹魏(そうぎ) · 征东大将军

曹休(そうきゅう)

字 文烈

登場回
24
台詞の記録
15
人間関係
18
内面の独白
3

史書の記録(Historical Record)

曹休(そうきゅう)、字は文烈、曹操(そうそう)の族子である。天下が大いに乱れたとき、曹休はわずか十余歳で父を喪い、ただ一人の門客とともに喪を担い、老母を携えて長江を渡り呉の地へ至った。後に曹操が義兵を挙げたため、彼は名を改め姓を変え、各地を転々として荊州(けいしゅう)に至り、最終的に間道を通って北へ帰り、曹操に面会することができた。曹操は彼を見て「我が家の千里の駒なり」と讃え、曹丕(そうひ)と同居させ、わが子のように待遇した c:2115。

曹休は常に曹操に従って征伐し、虎豹騎を率いて宿衛したこともある。建安二十三年(218年)、劉備(りゅうび)が将の吳蘭を遣わして下辯に駐屯させると、曹操は曹洪(そうこう)を遣わして討伐させ、曹休を騎都尉に任じて曹洪の軍事に参じさせた。曹操はわざわざ曹洪に「汝は参軍といえども、その実は帥なり」と言い含めた。曹洪はそのため曹休に重任を委ねた。当時、劉備はまた張飛(ちょうひ)を遣わして固山に駐屯させ、魏軍の後路を断とうとした。諸将が議論紛々とする中、曹休はこう考えた。「賊が実際に道を断つつもりなら、伏兵を潜行させるはず。今かえって先に声勢を張っているのは、それができないからである。賊が集結する前に、急いで蘭を撃つべきだ。蘭が破れれば飛は自ずと退くだろう。」曹洪はその進言を採用し、兵を進めて吳蘭を撃破し、張飛は果たして退いた c:2115。

曹操が漢中(かんちゅう)を攻め取った後、諸軍は長安(ちょうあん)へ還り、曹休を中領軍に任じた。曹丕が魏王の位に即くと、曹休は領軍将軍に任じられ、前後の功労により東陽亭侯に封じられた。夏侯惇(かこう とん)が死去すると、曹休は鎮南将軍に任じられ、節を仮されて諸軍事を都督した。曹丕は自ら見送り、車を下りて手を執って別れを告げた c:2115。

曹休は任期中、幾度も孫呉(そんご)と交戦した。孫権(そん けん)はかつて将を遣わして歷陽に駐屯させたが、曹休は到着するとこれを撃破し、また兵を遣わして長江を渡らせ、芜湖における呉軍の数千家の営寨を焼き払った。彼は後に征東将軍に遷り、揚州刺史を領し、安陽郷侯に進封された。曹丕が自ら孫権を親征した際には、曹休を征東大将軍とし、黄鉞を仮し、張遼(ちょうりょう)ら及び諸州郡の二十余軍を都督させ、洞浦で孫権の大将である呂範(りょはん)らを撃破した c:2115。

明帝曹叡(そうえい)が即位すると、曹休は長平侯に進封された。呉将の審徳が皖城に駐屯すると、曹休はこれを撃破し、審徳を斬殺した。呉将の韓綜(かんそう)・翟丹らも相次いで衆を率いて曹休に帰降した。曹休はそのため邑四百戸を増され、以前のと合わせて計二千五百戸となり、大司馬に遷り、揚州を都督することは元のままであった c:2115。

太和二年(228年)、魏明帝は兵を二路に分けて孫呉を征討し、司馬懿(しばい)は漢水(かんすい)を下り、曹休は諸軍を率いて尋陽へ進発した。呉軍の将領が偽って降ると、曹休はこれを軽信して深入りし、結果として戦事は不利となり、退いて石亭(せきてい)に宿営した。夜間、軍中が驚き乱れ、士卒が潰散し、大量の鎧甲・兵器・輜重を投げ捨てた。曹休はそのため上書して謝罪し、明帝は屯騎校尉の楊暨を遣わして慰諭させ、手厚い賞賜を賜った。しかし、曹休はそのために背の癰を発して薨去し、諡を壮侯とした c:2115。

演義の中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』の曹休の描写は、ある程度史実を継承しつつ、文学的な加工も施され、その人物像をより鮮明にしている。演義では、曹休は初登場ですでにその少年の英武な一面を示す。曹操が校場で弓矢を比試した際、曹休は曹氏宗族の子弟として、一矢で的の中心を射抜き、曹操を大いに喜ばせ、「我が家の千里の駒なり」と讃えられる c:5537。この筋立ては史書に明記がないが、史書における曹操の「千里の駒」という評価と呼応し、彼の少年得志の形象を強化している。

演義では、曹休は曹丕の即位後、御林軍総督に任じられ、京師の防衛を担う c:5538。曹丕が病重く後事を託すとき、曹休は曹真(そうしん)・陳羣(ちんぐん)・司馬懿とともに遺詔を受けて幼主曹叡を輔佐する c:5541。曹叡が即位すると、曹休は大司馬に封じられ、雍・涼の軍馬を都督し、その地位は顕赫であった c:5541。

演義は曹休の石亭の戦い(せきていのたたかい)での惨敗を重点的に描く。魏主曹叡が東呉の周魴の偽降の計を信じ、曹休・賈逵(かき)・司馬懿の三路の大軍を遣わして呉を伐つ。曹休は周魴を軽信し、賈逵の諫言を聞かず、あまつさえ賈逵を斬ろうとし、最終的に石亭で陸遜(りくそん)の伏兵にかかる c:11154。演義では、曹休は石亭で陸遜に大破され、甚大な損害を被り、ほとんど全軍が壊滅し、幸い賈逵が殿軍を務めたおかげで脱出することができた c:11161。この大敗により曹休は「気を病んで病となり、洛陽(らくよう)に至って、疽が背に発して死んだ」c:2118。これは史書記載の「癰が背に発して薨ず」と符合するが、演義はそれを敗戦の羞恚に帰し、より劇的にしている。

主要な関係

* 曹操(kin_of):曹休は曹操の族子で、幼少より曹操の賞識と重用を受け、「千里の駒」と讃えられ、曹丕と同居し、わが子のように待遇された c:2115。
* 曹魏(serves):曹休は生涯曹魏に忠誠を尽くし、曹操の時代から征戦を始め、曹丕・曹叡の二朝を経て、官は大司馬に至り、曹魏の重要な軍事将領であり宗室の重臣であった c:2115。
* 孫呉(fights_in):曹休は幾度も軍を率いて孫呉と交戦し、吳蘭・呂範・審徳らの将領を撃破したが、石亭の戦いで陸遜に大敗した c:2115。
* 陸遜(fights_in):曹休と陸遜は石亭の戦いで対陣した。曹休は周魴の偽降を軽信し、敵境深く入り込み、最終的に陸遜の伏兵に大敗した c:2115。
* 曹丕(kin_of):曹休と曹丕の関係は密接で、曹操はかつて彼らを同居させ、曹丕は即位後もその者に重任を委ね、出発の前には自ら見送った c:2115。
* 曹叡(serves):曹叡が即位すると、曹休は大司馬に進封され、引き続き揚州の軍事を都督した。曹叡は曹休に篤い信任を寄せ、石亭の大敗の後ですら、使者を遣わして慰諭し、手厚い賞賜を賜った c:2115。
* 賈逵(rivals):石亭の戦いの前、賈逵はかつて曹休に周魴を軽信すべきでないと諫めたが、曹休は聞かず、あまつさえ賈逵を斬ろうとした。敗戦後、賈逵が軍を率いて救援し、曹休はようやく脱出できた。史書には曹休と賈逵が日頃から不仲で、文帝が賈逵に節を仮そうとした際、曹休は賈逵の性が剛であり督とすべきでないと考えた、と記される c:11165。演義では曹休が賈逵の諫言に激怒し、その者が「我が功を奪おうとする」と考え、その兵権を削るが、最終的に賈逵がかえって曹休を救った、と描かれる c:11154 c:11161。
* 周魴(deceived_by):周魴は東呉の将領で、石亭の戦いで曹魏に偽って降り、見事に曹休を深入りさせ、曹休の大敗を招いた c:11152(演義独自)。

象徴的な場面

* 曹操が「千里の駒」と讃える:曹休が少年の頃、曹操が校場で弓矢を比試した際、一矢で的の中心を射抜き、曹操を大いに喜ばせ、「我が家の千里の駒なり」と讃えられた c:5537(演義独自)。この場面は曹休の少年の英武さと、曹操の彼への重用を生き生きと示している。
* 下辯の戦い:曹休は下辯の戦いで、吳蘭と張飛の意図を的確に判断し、曹洪に速やかに吳蘭を撃つよう進言し、見事に敵軍を撃退して、その軍事的才能を示した c:2115。
* 曹丕が自ら見送る:曹丕が即位すると、曹休を鎮南将軍に任じ、節を仮して諸軍事を都督させた。曹丕は自ら見送り、車を下りて手を執って別れを告げ、曹魏宗室における曹休の地位と曹丕の彼への信任のほどがうかがえる c:2115。
* 洞浦で呂範を撃破:曹丕が自ら孫権を親征した際、曹休は征東大将軍として諸軍を都督し、洞浦で孫権の大将である呂範を撃破し、対呉作戦におけるその能力を示した c:2115。
* 石亭の大敗:太和二年(228年)、曹休は呉将の偽降を軽信し、敵境深く入り込み、結果として石亭で陸遜に大敗し、甚大な損害を被った。この戦役は曹休に大きな打撃を与え、最終的にその背の癰を発しての薨去を招いた c:2115。演義はこの戦いをより詳細に描き、曹休の敵を侮ったことと諫言を聞かなかったこと、そして賈逵の救援を強調している c:11161。
* 後事を託される重臣:曹丕が病重きとき、曹休は曹真・陳羣・司馬懿とともに遺詔を受けて幼主曹叡を輔佐し、曹魏の後事を託される重臣となった c:5541。

肖像アーカイブ

人物像

性格
曹休(そうきゅう)は近しい関係によって信任を得たが、性情は短気で、猜疑を好み、かつて諸将が功を争っていると疑った。彼はかつて周魴(しゅうほう)の偽りの降伏により功を立てることに焦り、賈逵(かき)の諫止を聞かず、最終的に石亭(せきてい)の大敗を招いた。
生涯
曹休(そうきゅう)は曹操(そうそう)の族子で、早くに父を亡くし、母を伴って江を渡り呉に至った。彼は姓名を変えて北へ帰った後、曹操に重んじられ「千里の駒」と称され、曹丕(そうひ)と同居した。曹休は常に軍に従って征伐し、かつて呉蘭を大いに破り、後に官は大司馬に至り、揚州の軍事を都督した。石亭の戦い(せきていのたたかい)では、周魴(しゅうほう)の偽降の計にかかって陸遜(りくそん)に大敗し、最終的に背に癰疽を発して死んだ。
逸話
曹休(そうきゅう)は母にきわめて孝行で、その亡き母を迎え葬った事は皇帝の礼遇さえ受けた。彼は曹丕(そうひ)臨終の顧命大臣の一人であり、曹魏(そうぎ)の東線における重要な統帥でもあった。

人間関係

18 件の関係

名言

全 15 件の台詞 · 厳選 3 件

「吾不用公言,果遭此敗!」

演 第96回→ 賈逵(かき)

この台詞は、剛愎で自らを恃み、事後に悔いる曹休の性格を示し、その人物像を典型的に描き出している。

「原將銳卒虎步江南,因敵取資,事必克捷;若其無臣,不須為念。」

史 第14回

この台詞は正史に由来し、若き日の曹休の意気軒昂で自信に満ちた軍事的才能を示している。

「吾中賊之計矣!雖然如此亦不足懼。」

演 第96回

この台詞は曹休が計略にかかった後の名台詞であり、敗れてなお傲慢なその性格を反映し、高い識別度を持つ。

登場回24 回 ▸
  • 史ch.2ch.3ch.9ch.14ch.15ch.17ch.18ch.22ch.24ch.28ch.56ch.57ch.58ch.60ch.62
  • 演ch.56ch.69ch.71ch.80ch.84ch.85ch.91ch.96ch.97
関係の年表5 条 ▸

史 ch.3

史 ch.9

史 ch.17

演 ch.80

演 ch.97

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 我は曹休(そうきゅう)、字は文烈。今日、生涯を振り返って最も耐えがたいのは、敗戦したということではない。自分は人の心を見抜き、虚実を見分けられると思い込んでいたことだ。周魴が降伏して七つの理由を述べると、私はその言葉を信じた。彼は泣いて自刃
  • 私は曹休(そうきゅう)、字は文烈(Wenlie)。今日、征東大将軍に任じられ、諸軍を率いて呉を討つこととなった。詔命を身に受けた以上、諸将は節を受け、私の指揮に従う。これは一時の栄誉ではなく、宗室から任され、国家から託された務めである。かつ
  • 私は字を文烈(ぶんれつ)といい、若い頃に経験したことについて、史書に記されているのは多くない。若き日を振り返ろうとしても、後年の出来事からさかのぼるほかなく、伝聞をすべて自分の昔の経験として語ることはできない。世間では『演義』によって、私を
生涯の大事6 ▸