言語
賀

孫呉(そんご) · 中书令、太子太傅

賀邵(がしょう)

登場回
1
台詞の記録
0
人間関係
3
内面の独白
1

史載(Historical Record)

賀邵(がしょう)は、字を興伯といい、会稽(かいけい)山陰の人で、賀斉の孫、賀景(がけい)の子である。孫休(そん きゅう)が在位していた間、賀邵(がしょう)は中郎から散騎常侍に昇り、のちにまた呉郡太守となった。孫皓(そん こう)が継位したのち、賀邵(がしょう)は召されて入朝し、左典軍を務め、続いて中書令に昇進し、太子太傅を兼領した。

孫皓(そん こう)の執政の間、その性質は暴虐で驕矜であり、朝政は日ごとに敗れていった。賀邵(がしょう)はこれを深く憂慮し、そこで上疏して直諫し、時弊を陳述した。しかし、孫皓(そん こう)は賀邵(がしょう)の諫言に深く不満を抱き、恨みを心に懐いた。賀邵(がしょう)は人となり公に奉じて貞正で、その耿直な品格のために、親近の者さえ彼に対していささか憚るところがあった。

のちに、ある者が賀邵(がしょう)が楼玄(ろうげん)とともに国事を誹謗したと誣告し、二人はそのためともに詰責を受けた。楼玄(ろうげん)は南州に流され、賀邵(がしょう)は赦されて官を旧に復した。ほどなくして、賀邵(がしょう)は中風となり、口がきけなくなり、やむなく数か月職を離れた。孫皓(そん こう)は賀邵(がしょう)が病を装っていると疑い、そこで彼を逮捕し、酒蔵に拘禁し、千余回の拷打を加えた。酷刑のもと、賀邵(がしょう)は終始一語も発せず、最終的に殺害された。賀邵(がしょう)の家属もまた臨海に流された。同年、すなわち天册元年、孫皓(そん こう)はまた詔を下して楼玄(ろうげん)の子孫を誅殺した。賀邵(がしょう)が害されたとき、年はわずか四十九歳であった。

賀邵(がしょう)の子の賀循は、字を彦先といい、一族が変故に遭ったのち、海浜に流された。呉国が平定されたのち、賀循は故郷に還ることができた。彼は節操が高尚で、幼くして衆と異なり、言行挙止はみな礼儀にかなった。賀循は学を好み博聞で、とりわけ三礼に精通した。彼はかつて秀才に挙げられ、前後して陽羨、武康の県令を務めた。顧栄、陸機(りくき)、陸雲(りくうん)らはかつて連名で表を上げて賀循を挙げ、その徳量の深厚さ、才識の清遠さ、品行の凝重さを讃え、多くの地で官を務めていずれも刑政を粛穆ならしめたとした。彼らは、賀循が長く下県の職にあり、朝廷の重用を得られなかったのは、まことに州里の賢愚みなこれを惜しむことだと考えた。賀循はのちに太子舍人に召された。石冰が揚州で乱を起こしたとき、賀循もまた民を組織して抵抗した。事態が平息したのち、彼は門を閉じて出なかった。陳敏が乱を起こしたとき、かつて賀循を丹楊内史に任命したが、賀循は病と称して固辞し、陳敏も強いて逼ることを敢えてしなかった。当時、江東の豪右の多くが陳敏の官職を受けたが、ただ賀循と同郡の朱誕だけは屈服しなかった。のちに、賀循は呉国内史に任命されたが、彼は就任しなかった。元皇帝が鎮東将軍を務めていたとき、かつて賀循を軍司馬に請うた。元皇帝が晋王に晋封したのち、また賀循を中書令に任命したが、賀循は断固として辞退し、のちに太常に転じ、太子太傅を兼領した。当時、朝廷は初めて建てられ、制度に疑議が多く、宗廟の制度の多くは賀循が定めるところとなり、彼は朝野の咨詢の対象となり、一時の儒宗と称された。賀循は六十歳で没した、すなわち太興二年である。彼は司空を追贈され、諡を穆とされた。賀循の著作は世に流伝した。その子の賀隰は、かつて臨海太守を務めた。

演中(In the Novel)

目下、賀邵(がしょう)の文学的造形については、『三国演義』などの主要な演義作品に明確な記載はない。したがって、その人物像は主に史料の描写に依拠しており、演義がその生涯の事績、性格の特徴、あるいは主要な関係に追加の渲染や虚構を加えたものは見られない。賀邵(がしょう)は演義において独立した物語の筋立てや顕著な文学的人物像を欠いており、その「公に奉じて貞正、親近の者も憚る」性格の特徴と、最終的に孫皓(そん こう)に残害された悲劇的結末は、いずれも演義においてさらに劇化された呈現を得ていない。

主要な関係

* 孫呉(そんご)(serves):賀邵(がしょう)は生涯にわたって孫呉(そんご)政権に効力し、孫休(そん きゅう)の時期から官職を務め始め、孫皓(そん こう)の時期には中書令、太子太傅に至り、孫呉(そんご)後期の重要な朝臣であった。
* 孫皓(そん こう)(enemy_of):孫皓(そん こう)は賀邵(がしょう)の悲劇的運命の直接の製造者である。賀邵(がしょう)は孫皓(そん こう)の暴政を直諫したことでその忌恨を受け、最終的に誣告され、拷打されて死に至った。孫皓(そん こう)の残暴と賀邵(がしょう)の正直は鮮明な対照をなした。
* 楼玄(ろうげん)(colleague/victim):楼玄(ろうげん)は賀邵(がしょう)とともに孫皓(そん こう)の時期の朝臣であり、二人はかつてともに「国事を謗毀した」と誣告され、楼玄(ろうげん)は流され、賀邵(がしょう)は一度復職したものの、最終的に厄運を免れなかった。二人はともに孫皓(そん こう)の暴政のもとの受害者である。
* 賀循(son):賀循は賀邵(がしょう)の子で、父が害されたのち、流刑の苦難を経験した。彼は父の高潔な品格を継ぎ、西晋の時期に一代の儒宗となり、その事績は史料に詳しく記載され、賀邵(がしょう)一族の精神の延続である。

象徴的な場面

* 上疏して孫皓を直諫する:賀邵(がしょう)は孫皓(そん こう)の「凶暴驕矜、政事日ごとに弊る」に直面し、個人の安危を顧みず、毅然として上疏して直諫し、時弊を指摘した。この行為は彼の「公に奉じて貞正」の品格と国家への忠誠を十分に示している。この挙は最終的に殺身の禍を招いたが、その勇気と気概は彼の生涯における最も顕著な象徴となった。
* 酷刑のもと堅貞不屈:賀邵(がしょう)は中風ののち孫皓(そん こう)に病を装っていると疑われ、酒蔵に収付され、千余回の拷打を受けた。これほど残酷な責め苦のもと、賀邵(がしょう)は「ついに一語もなく」、最終的に殺害された。この場面は賀邵(がしょう)の「志高潔」と堅貞不屈の精神の極致の体現であり、またその悲劇的運命の高潮である。彼の沈黙は暴政に対する最も強烈な抗議であり、また彼の人物像をいっそう悲壮ならしめた。
* 一族の流刑と後代の興起:賀邵(がしょう)が害されたのち、その家属は臨海に流された。しかし、彼の子の賀循は逆境の中で成長し、最終的に西晋の時期の著名な儒宗となり、司空を追贈され、諡を穆とされた。賀循の成就は賀邵(がしょう)の正直な品格の伝承であるだけでなく、賀邵(がしょう)一族が磨難を経たのちもなお門楣を光耀しえたことを象徴しており、これが賀邵(がしょう)の犠牲をいっそう深遠な意義あるものとしている。

人間関係

3 件の関係

登場回1 回 ▸
  • 史ch.65
関係の年表1 条 ▸

史 ch.65

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は賀邵(がしょう)、字は興伯(Kōhaku)、会稽(かいけい)山陰の人である。孫休(そん きゅう)が即位したとき、中郎から散騎中常侍となり、その後、呉郡太守に任じられた。孫皓(そん こう)の代になると、再び朝廷に入り左典軍となり、中書令に
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