史載(Historical Record)
何進(かしん)は字を遂高といい、南陽(なんよう)の人で、その妹が宮中に入って貴人となり、後に皇后に立てられたため、何進はこれによって顕貴となった。中平元年(184年)、黄巾の乱(こうきんのらん)が勃発し、何進は大将軍に任じられ、軍政の大権を掌握した c:121。
霊帝の病が重くなると、かつて何進を召して後事を協議した。霊帝が崩御し、太子の劉弁(りゅう べん)が即位すると、何太后(かたいこう)が臨朝して称制した。このとき、何進は司隷(しれい)校尉の袁紹(えんしょう)とひそかに宦官の誅殺を謀ったが、何太后はこれを支持しなかった。太后に同意を迫るため、何進は袁紹の建議を採り、辺将の董卓(とう たく)を召して兵を率いて入京させ、武力で太后を威圧しようとした c:119。彼はさらにひそかに上書し、中常侍の張譲(ちょうじょう)らが権を窃み政を乱しているとし、鐘鼓を鳴らして洛陽(らくよう)に入り討伐しようとした。しかし、董卓がまだ洛陽に到達する前に、何進の計画はすでに露見していた。中常侍の張譲、段珪らはこの知らせを得ると、先手を打って、少帝の劉弁と陳留(ちんりゅう)王の劉協(けんてい)を劫(おびや)かして宮廷から逃れ出た c:121。
何進の弟、車騎将軍の何苗(かびょう)は、宦官と通じていると疑われ、かつ何進と同心でなかったため、最終的に何進の部曲将の吳匡と董卓の弟の董旻が共謀して朱爵闕の下で殺害した c:121。何進本人もまた宦官の謀略によって殺された。何進の死後、その部曲ならびに何苗の部曲は統率を失い、皆董卓に帰服した。董卓はその後また計を設けて執金吾の丁原(ていげん)を殺害し、その部衆を併合し、ここに至って京都の兵権はことごとく董卓一人の掌握するところとなった c:121。
何進が外兵を召集する過程で、かつて張遼(ちょうりょう)を遣わして河北で兵を募らせた。張遼が千余人を募って戻ったとき、何進はすでに敗亡しており、張遼の部隊は董卓に帰属した。董卓が敗亡した後、張遼はまた呂布(りょふ)に転じて投じ、呂布に従って征戦した。曹操(そうそう)が呂布を破った後、張遼は部を率いて降り、曹操麾下の重要な将となり、たびたび戦功を立てた c:122。
演中(In the Novel)
『三国演義』では、何進の人物像はさらに、優柔不断で先見の明を欠く屠殺人出身の大将軍として造形されている。小説は冒頭で、何進がその妹の何氏が皇后に立てられ、皇子の劉弁を生んだことにより、富貴と権勢を享受したと説明する c:123。霊帝の病が重くなると、かつて何進を召して後事を協議し、中常侍の蹇碩(けんせき)はまず何進を除いて皇子の協を立てようとしたが、司馬の潘隱に密告され、何進は難を免れた c:123。
霊帝が崩御すると、何進は宦官をことごとく誅殺しようとしたが、曹操の諫めに遭った。曹操は、宦官の禍は、ただ元凶を誅殺すればよく、一獄吏で足り、大げさに外兵を召集して事が漏れて乱を生じさせる必要はないと考えた。しかし、何進はかえって曹操を「小輩」と叱責し、その言を聞かなかった c:123。袁紹は宦官をことごとく誅殺するよう積極的に主張し、「草を刈り根を除く」建議を出した c:124。何太后は宦官がかつて自分が勢力を得るのを助けたことを思い、かつ蹇碩がすでに死んだことから、宦官をことごとく誅殺することを望まず、何進もこれに唯々諾々とした c:124。
宦官の勢力を徹底的に除くため、何進は袁紹の計を採り、各鎮に檄文を発し、四方の英雄豪傑を召集して兵を率いて入京させ、太后に同意を迫ろうとした c:7059。主簿の陳琳(ちんりん)はかつて諫め、この挙はまるで「目を覆って燕雀を捕らえる」ようなもので、自欺欺人であり、かつ「干戈を逆さに持ち、人に柄を授ける」ことになって大乱を生じる恐れがあると指摘したが、何進はかえってこれを「臆病者の見識」と嘲笑した c:7061。曹操もまた再び諫め、外兵を入京させるのは「天下を乱す者」だと考えた c:128。侍御史の鄭泰(ていたい)と盧植(ろ しょく)も力をもって何進を諫め、董卓は「豺狼」であり、京城に引き入れれば必ず禍を生じると指摘したが、何進はなお一意に固執し、諫めを聞かず、鄭泰、盧植ら大臣が次々と官を捨てて去る結果を招いた c:7063。
最終的に、張譲ら宦官は外兵が来ると知り、先手を打つことを決めた。彼らは太后の詔を偽り、何進を宮中に召した。陳琳、袁紹、曹操らがしきりに諫めたにもかかわらず、何進は「天下の権を掌る」と自負し、宦官が何もできまいと考え、昂然とまっすぐ入った。その結果、嘉徳殿の門前で、張譲、段圭らの伏兵に斬り殺された c:7064。小説では、何進の死因は史実とほぼ一致するが、その優柔不断で剛愎自用な性格の特徴がさらに誇張され、その悲劇的な運命の直接の原因となっている。
主要な関係
* 何太后(sibling_of):何進の実の妹であり、宮中に入って貴人となり皇子の劉弁を生んだことで、何進は顕貴となった。何太后は宦官誅殺の件で何進と意見が相違し、何進の計画が阻まれた重要な原因となった c:124。
* 袁紹(friend_of):何進の盟友、司隷校尉。袁紹は宦官誅殺を積極的に主張し、外兵の入京召集を含め何進のために策謀をめぐらした。何進が殺される前、袁紹はかつて彼を守ろうとしたが、成功しなかった c:7064。
* 董卓(betrayed_by):何進が太后を脅迫するため京城に召し入れた辺将。董卓は入京後、混乱に乗じて大権を掌握し、最終的に皇帝を廃立し、何太后および弘農王を殺害した c:119。
* 張譲、段珪ら十常侍(rival_of):張譲を首とする宦官集団であり、何進が除こうとした対象である。彼らは何進と権力闘争を展開し、最終的に計を設けて何進を殺害した c:7064。
* 曹操(critic_of):典軍校尉。曹操はたびたび何進を諫め、外兵を入京させる危険性を指摘し、この挙が必ず天下の大乱を招くと予言したが、何進は聞き入れることができなかった c:128。
* 張遼(commands_in):何進はかつて張遼を遣わして河北で兵を募らせた。何進の敗亡後、張遼およびその部衆は董卓に帰属した c:122。
* 何苗(sibling_of):何進の弟、車騎将軍。史実では、何苗は宦官と通じていると疑われ、何進の部曲と董旻に共謀されて殺害された c:121。演義では、何苗は張譲ら宦官に買収され、宮中に入って何太后を諫め、何進の宦官誅殺に反対した c:126(演義独自)。
象徴的な場面
* 董卓を入京させる:何進は宦官の勢力を除くため、袁紹の建議を採り、董卓に兵を率いて入京させ、武力で太后を脅迫しようとした。この挙は狼を室内に引き入れる肝心な一歩となり、直接に後漢末年の大乱を招いた c:119。
* 曹操、陳琳らの諫め:何進が外兵の召集を決めた際、曹操、陳琳、鄭泰、盧植ら多くの者が前後して進言し、この挙の大きな危険性を指摘し、狼を引き入れて天下を乱すことになると予言した。しかし何進は一意に固執し、忠言を聞き入れることができず、最終的に大禍を醸した c:7061。
* 何進が宦官に殺される:董卓がまだ洛陽に到達しないうちに、何進は張譲ら宦官に太后の詔を偽って宮中に騙し入れられ、最終的に嘉徳殿の門前で伏兵に斬り殺された。この出来事は後漢の中央政権の完全な統制喪失を象徴し、また何進の政治生涯に悲劇的な終止符を打った c:7064。
* 「天下を乱す者は、必ず何進である」:曹操は何進を諫めても聞き入れられなかった後、「天下を乱す者は、必ず何進である」と嘆いた。この言葉は何進の決断のもたらす結果を的確に予言し、その人物像の古典的な注脚ともなった c:128(演義独自)。
人間関係
25 件の関係
名言
全 12 件の台詞 · 厳選 3 件
「汝小輩安知朝廷大事!」
この台詞は曹操(そうそう)への何進(かしん)の侮蔑を示し、その見識の狭さを際立たせている。
「太后不允,如之奈何?」
何進(かしん)が太后に制せられ、決断をためらう様を映し出しており、その悲劇の伏線となっている。
「此小兒之見也。吾掌天下之權,十常侍敢待如何?」
この台詞は何進(かしん)の傲慢さと時局の読み違えを余すところなく示す、その滅亡の直接的な原因である。
登場回8 回 ▸
- 史ch.1ch.6ch.17ch.21
- 演ch.2ch.3ch.4ch.22
関係の年表11 条 ▸
史 ch.1
friend_of
共谋诛宦官
betrayed_by
召董卓欲以胁太后;卓未至而进见杀
史 ch.6
advises_in
大将军与司隶校尉谋诛诸阉官
史 ch.17
commands_in
遣辽诣河北募兵
演 ch.2
- 何太后(かたいこう)§14
sibling_of
兄妹(妹入宫为贵人,由是得权重任)
- 蹇碩(けんせき)§15
enemy_of
帝崩后下令"族灭其家"
- 董重(とうちょう)§17
enemy_of
点禁军围董重府宅追索印绶;董重自刎
- 何苗(かびょう)§18
sibling_of
兄弟
- 董太后(とう たいごう)§18
enemy_of
暗使人酖杀董后于河间驿庭
演 ch.3
- 曹操(そうそう)§1
rival_of
怒斥"孟德亦懷私意耶?"
advises_in
暗差使命齎密詔召之
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は何進(かしん)、字は遂高(すいこう)。ここに至ってようやく、天下の権を握ることと、目の前の情勢を見通すこととは別だと知った。かつて曹操(そうそう)は面と向かって、宦官の禍は世の主が権勢と寵愛を与えたことにあると私に諫めた。罪を問うなら、
- 私は何進(かしん)、字は遂高(Suikō)、南陽(なんよう)の人である。昔を思えば、家はもともと貧しく、父が亡くなった後、妹が掖庭に入った縁で、妹が皇后に立てられてようやく私は貴顕の身となった。黄巾の乱が起こると、大将軍に任じられた。今日の
- 私は何進(かしん)、字は遂高(すいこう)。かつて屠家の出で、家柄も卑しかったことを思い返せば、並外れた才能があるなどと、どうして自ら称せよう。妹が宮中に入り貴人となり、皇子弁を産み、のちに皇后に立てられたため、私は次第に権勢を得て、朝廷に列
生涯の大事2 ▸
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