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丁奉(ていほう)

孫権集団(そんけんしゅうだん) · 将軍

丁奉(ていほう)

字 承淵

登場回
15
台詞の記録
9
人間関係
17
内面の独白
3

史載(Historical Record)

丁奉(ていほう)は、字を承淵といい、廬江(ろこう)安豊の人で、東呉後期の重要な将領である。彼はその勇猛果敢と優れた軍事の才により、孫呉(そんご)政権においてたびたび戦功を立て、官は大司馬・左軍師に至った。丁奉は最初、小将の身分で甘寧(かんねい)に従い、後に功によって累進して偏将軍に至った。彼は性格が堅毅で、戦うときにはしばしば身をもって士卒に先んじ、将を斬り旗を奪い、孫権(そん けん)に深く重んじられた。

東興の戦い(とうこうのたたかい)において、魏は諸葛誕(しょかつたん)・胡遵(こ じゅん)を遣わして大軍をもって東興(とうこう)を攻めさせ、諸葛恪(しょかつかく)が軍を率いてこれを防いだ。当時、諸将は敵軍が太傅の親臨ゆえに退くであろうとおおむね考えたが、ただ丁奉だけが異なる意見を持ち、魏軍が大挙して来た以上、必ず周到な計画があり、軽視してはならぬと考えた。彼は「敵の来らざるを恃むなかれ、吾れに以て勝つあるを恃め」と強調した c:6925。諸葛恪が岸に上がった後、丁奉は唐咨(とうし)・呂拠(りょきょ)・留賛(りゅうさん)らとともに山の西から進発した。彼は諸軍の行動が遅いのを見て、魏軍が有利な地勢を先取するのを憂え、ただちに他の部隊に道を下らせ、自らは三千の精兵を率いてまっすぐ前進した。当時ちょうど北風が吹いており、丁奉は風勢を利用し、二日のうちに徐塘に到達して要地を占拠した。折しも天は寒く地は凍て、魏軍の将領たちは宴を設けて高会していた。丁奉は敵軍の前部の兵力が手薄であることを観察し、部下に「封侯の爵賞を取るは、まさに今日にあり!」と言った。彼は士兵に命じて鎧を解かせ、ただ兜だけを着け、短い兵器を持たせた。魏軍はこれを見て嘲笑してやまず、意に介さず、備えをしなかった。丁奉は機を捉えて兵を放って猛攻し、敵軍の前鋒を大破した。続いて呂拠らの援軍が駆けつけ、魏軍は潰敗した。この戦いで丁奉は功により滅寇将軍に任じられ、都郷侯に進封された。 c:6925

孫休(そん きゅう)が即位した後、張布(ちょうふ)と密かに権臣・孫綝の誅殺を謀った。張布は孫休に丁奉を推薦し、彼は文書には巧みでないが計謀が人に過ぎ、大事を決断できると称した。孫休は丁奉を召見し、その意を告げた。丁奉は孫綝の兄弟や党羽が多く、にわかに制するのは難しいと考え、臘月の宴会を利用し、皇帝の兵力をかりてこれを誅殺するよう建議した。孫休はその計を採り入れた。宴会で、丁奉は張布とともに左右の武士を指揮して孫綝を斬殺した。丁奉はこれにより大将軍に昇り、左右都護を加えられた。永安(えいあん)二年、彼は節を仮し徐州(じょしゅう)牧を領した。永安六年、魏が蜀を伐つと、丁奉は軍を率いて寿春(じゅしゅん)へ赴き、魏軍を牽制して蜀漢(しょくかん)を援けようとした。しかし蜀漢は最終的に滅亡し、丁奉の部隊もこれにともなって班師した。 c:6928

孫休の死後、丁奉は丞相・濮陽興(ぼくようこう)らとともに万彧(ばんいく)の建議に従い、ともに孫皓(そん こう)を擁立して帝とした。丁奉はこれにより右大司馬・左軍師に遷った。宝鼎三年、孫皓は丁奉に諸葛靚(しょかつせい)とともに合肥(がっぴ/ごうひ)を攻めるよう命じた。丁奉はかつて晋の大将・石苞(せきほう)に書を致し、離間を図り、石苞はこれにより召還された。建衡元年、丁奉は再び衆を率いて徐塘を修築し、機に乗じて晋の谷陽を攻めた。しかし谷陽の百姓はこれを聞いて続々と移り去り、丁奉は何も得られなかった。孫皓はこれに大いに怒り、丁奉の導軍を斬った。建衡三年、丁奉は亡くなった。彼は位が高く権が重く、功勲も卓著であったため、次第に驕矜自満となり、彼を誹謗する者もあった。孫皓はその以前の出兵が功なきことを追究し、丁奉の家属を臨川へ移した。丁奉の弟・丁封(ていほう)は、官は後将軍に至り、丁奉に先んじて亡くなった。 c:4468

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』において、丁奉の形象はさらに造形され、彼は勇猛な戦将であるばかりでなく、智謀と果断の特質を賦与され、とりわけ東呉の幾度かの重大な軍事行動において肝要の役を演じている。彼が最初に登場するのは第三十八回で、呂蒙(りょもう)・陸遜(りくそん)・徐盛(じょせい)・潘璋(はんしょう)らとともに孫権に招き入れられ、江東の良将の一人となり、東呉の人材輩出の盛況を示した。 c:4470

赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の後、周瑜(しゅうゆ)は諸葛亮(しょかつりょう)を擒えようと謀り、丁奉と徐盛に水陸から追撃するよう命じた。丁奉は馬軍を率いて先に祭壇に到達したが、諸葛亮の姿が見えず、後から駆けつけた徐盛と合流するほかなかった。小卒は諸葛亮がすでに船に乗って去ったと告げた。丁奉と徐盛は水陸の二路に分かれて追ったが、徐盛が船上で高く呼ばわると、諸葛亮は船尾で大笑し、すでに周瑜の意図を見抜いており、趙雲(ちょううん)が迎えに来ているから追う必要はないと言い明かした。丁奉は岸上で徐盛と合流した後、諸葛亮の神機妙算は人の及ぶところでなく、加えて趙雲の勇猛無敵であることを嘆じ、徐盛にもう追わず、直ちに帰って復命するよう勧めた。 c:11 c:6923 この筋立ては史書には明らかな記載がないものの、諸葛亮の智謀を大いに際立たせるとともに、丁奉の局面に対する冷静な認識をも側面から示している。

周瑜が南郡(なんぐん)を取ろうとした際、丁奉と徐盛は副将に任じられ、蔣欽(しょうきん)を先鋒として、精鋭の部隊を率いて江を渡った。 c:4471 後に周瑜は劉備(りゅうび)を荊州(けいしゅう)へ誘い、機に乗じて擒えようと謀り、丁奉は徐盛・甘寧・凌統(りょうとう)・呂蒙らとともに周瑜に従って水陸の大軍を率いて荊州へ赴いた。 c:12 関羽(かんう)が油断して荊州を失った後、丁奉は徐盛・蔣欽・韓当(かんとう)・周泰(しゅうたい)らの将領とともに関羽を囲攻し、最終的に関羽を麦城(ばくじょう)へ敗走させた。 c:13

夷陵の戦い(いりょうのたたかい)において、丁奉は徐盛とともに陸遜の護衛として従軍した。蜀兵が武を耀かし威を振るい、衣を解き甲を卸して呉軍を罵ったとき、徐盛・丁奉はかつて戦いを請うたが、陸遜に「敵を誘う計」を理由に制止された。 c:15 この戦いで、丁奉はかつて殿軍の傅彤(ふとう)を降そうとしたが、傅彤は死すとも降らず、最終的に戦死した。 c:6924 この描写はさらに丁奉の勇猛を造形するとともに、蜀漢の将士の忠烈をも示している。

魏の文帝・曹丕(そうひ)が呉を伐ったとき、丁奉は淮河のほとりで軍を率いて突襲し、張遼(ちょうりょう)を射傷し、孫韶(そん しょう)とともに魏軍の大量の物資を奪い、魏軍を大敗させた。 c:16 東興の戦いは演義においていっそう生き生きと描かれている。諸葛恪が軍を率いて魏軍を防いだ際、丁奉は自ら進んで願い出て、三千の水兵を率いて先行した。彼は北風を利用し、二日のうちに徐塘に到達した。魏軍の将領・胡遵らはちょうど宴を設けて高会しており、丁奉の船上の人数が多くないのを見て意に介さなかった。丁奉は士兵に命じて衣甲を脱がせ、ただ短刀だけを持たせ、魏軍の不備に乗じて魏寨を猛攻し、韓綜(かんそう)を斬り、桓嘉(かんか)を刺傷し、魏軍を大破した。 c:4472 c:6921 c:17 この戦役は演義において、丁奉の智勇兼備と臨機応変の能力を大いに際立たせている。

孫休が即位した後、丁奉は孫綝を誅殺する事件において再び肝要の役を果たした。張布は孫休に丁奉を推薦し、彼を「計略人に過ぎ、大事を断ずるを能くす」と称した。丁奉は臘日の宴会で孫綝を誅殺する計を献じ、自ら部署を整え、最終的に権臣を除くことに成功した。 c:19 このほか、蜀漢の危急の際、丁奉はまた命を受けて軍を率いて蜀を援け、兵を三路に分かち、沔中と寿春へ進発して魏軍を牽制した。 c:4473

主要な関係

* 甘寧(serves):丁奉は早期にかつて小将の身分で甘寧に従い、その麾下で力を尽くし、次第に経験と功勲を積み重ねた。 (史載)
* 孫呉(serves):丁奉は一生孫呉政権に忠であり、孫権の時期から始まり、孫亮(そん りょう)・孫休・孫皓の四朝を経て、東呉のために赫々たる戦功を立てた、孫呉後期の重要な軍事の支柱である。 (史載)
* 孫権集団(serves):丁奉は孫権集団の中後期に現れた傑出した将領であり、孫権の統治の時期にすでに頭角を現し、その後の呉主の時期にも引き続き重要な役割を発揮した。 (史載)
* 諸葛亮(陸路の追撃):『三国演義』において、赤壁の戦いの後、周瑜はかつて丁奉と徐盛に諸葛亮を追撃させたが、諸葛亮はすでに見抜いており、趙雲の迎えもあって、丁奉は功なく引き返した。丁奉はこれにより諸葛亮の神機妙算を嘆じた。 (演義独自) c:11 c:6923
* 孫綝(誅殺):孫休の即位後、丁奉は張布と謀り、臘月の宴会で権臣・孫綝の誅殺に成功し、孫休のために統治を固めた。 (史載) c:6928
* 諸葛恪(東興の戦い):東興の戦いにおいて、丁奉は諸葛恪麾下の一猛将であり、彼は衆議を排して率先出撃し、東呉の東興大捷のために首功を立てた。 (史載) c:6925
* 張布(孫綝誅殺の謀):張布は孫休に丁奉を推薦し、丁奉とともに孫綝を誅殺する計画を謀り執行した。 (史載) c:6928
* 石苞(離間):丁奉はかつて晋の大将・石苞に書を送り、彼と司馬昭(しばしょう)との関係を離間しようとし、最終的に石苞を召還させた。 (史載) c:4468
* 傅彤(降を勧める):夷陵の戦いにおいて、丁奉はかつて殿軍の蜀将・傅彤を降そうとしたが、傅彤は死すとも降らず、最終的に戦死した。 (演義独自) c:6924
* 張遼(射傷):『三国演義』において、魏の文帝・曹丕が呉を伐ったとき、丁奉は淮河のほとりで突襲し、一矢で張遼の腰を射て、張遼を傷重く不治に至らしめた。 (演義独自) c:16

象徴的な場面

* 東興で雪中に魏軍を破る:これは丁奉の最も代表的な戦役である。天は寒く地は凍て、大雪の舞う東興で、魏軍の将領は高会して酒を飲み、備えを怠っていた。丁奉は機を捉え、士兵に命じて甲を解き短い兵器を持たせ、不意をついて猛攻を発し、魏軍の前鋒を大破し、東呉のために東興大捷を勝ち取った。この場面は丁奉の勇猛・果断・軍事的洞察力を十分に示している。 c:6925 (史載)
* 臘月の宴で孫綝を誅す:孫休の即位後、丁奉は張布と密謀し、臘月の宴会で皇帝の名をかり、権臣・孫綝の誅殺に成功し、東呉のために腹心の患いを除いた。この事件は政治闘争における丁奉の智謀と執行力を示している。 c:6928 (史載)
* 諸葛亮を追撃して功なく引き返す:『三国演義』において、赤壁の戦いの後、周瑜は丁奉と徐盛に諸葛亮を追撃させた。丁奉は追撃の過程で諸葛亮の神機妙算を嘆じ、最終的に功なく引き返した。この場面は演義の虚構ではあるが、智者に対する丁奉の敬服を際立たせ、諸葛亮の形象に伝奇的な色彩を添えている。 c:11 c:6923 (演義独自)
* 夷陵の戦いで傅彤に降を勧める:夷陵の戦いにおいて、丁奉は呉軍の将領として、殿軍の蜀将・傅彤を降そうとした。傅彤は死すとも降らず、最終的に戦死した。この場面は敵方の将領としての丁奉の形象を示すとともに、傅彤の忠烈をも引き立てている。 c:6924 (演義独自)
* 淮河のほとりで張遼を射傷する:『三国演義』において、魏の文帝・曹丕が呉を伐ったとき、丁奉は淮河のほとりで魏軍を突襲し、一矢で張遼の腰を射て、張遼を傷重く不治に至らしめた。この筋立ては丁奉の武勇の形象を大いに高めるとともに、この名将・張遼の結末ともなった。 c:16 (演義独自)

肖像アーカイブ

人物像

性格
丁奉(ていほう)は戦いにおいて常に軍中で首位を占め、そのたびに将を斬り旗を奪い、陣に臨んで決断し、気概は豪壮で烈しかった。彼は計略が人に優れ、大事を決することができた。
生涯
丁奉(ていほう)は廬江(ろこう)安豊(あんぽう)の人で、少年の頃から驍勇をもって小将となった。彼はかつて徐盛(じょせい)の密計を受けて三千の兵を率いて江を渡り孫韶(そん しょう)に応援し、また魏兵が淮河(わいが)に敗走した時に孫韶とともに無数の輜重を奪い取り、張遼(ちょうりょう)の腰を射当てた。
武器
丁奉(ていほう)は短刀を用いた。
逸話
丁奉(ていほう)は孫呉(そんご)の将領で、偏将軍・冠軍将軍・滅寇将軍・虎威将軍・左将軍・大将軍・右大司馬左軍師を歴任した。彼はかつて周瑜(しゅうゆ)の命を受けて諸葛亮(しょかつりょう)を追い討ちし、後に孫休(そん きゅう)を助けて孫綝(そんちん)を誅殺し、東興の戦い(とうこうのたたかい)では三千の短兵をもって魏の陣を急襲し、戦局を一変させた。

人間関係

17 件の関係

名言

全 9 件の台詞 · 厳選 3 件

「大丈夫立功名,取富貴,正在今日!」

演 第108回

この一句は丁奉(ていほう)の勇猛果敢な将としての本領を示し、士気を鼓舞している。

「不然。彼動其境內,悉許、洛兵大舉而來,必有成規,豈虛還哉?無恃敵之不至,恃吾有以勝之。」

史 第55回→ 諸葛恪(しょかつかく)

この一句は丁奉(ていほう)の深謀遠慮な戦略眼を体現し、能動的な防御を強調している。

「丞相兄弟友黨甚盛,恐人心不同,不可卒制,可因臘會,有陛下兵以誅之也。」

史 第55回→ 孫休(そん きゅう)

この一句は丁奉(ていほう)が権臣を誅殺する謀りごとであり、その政治的知恵と忠誠を体現している。

登場回15 回 ▸
  • 史ch.55ch.61ch.64
  • 演ch.38ch.49ch.51ch.55ch.56ch.76ch.83ch.84ch.86ch.108ch.113ch.117
関係の年表10 条 ▸

史 ch.55

演 ch.49

演 ch.56

演 ch.76

演 ch.83

演 ch.84

演 ch.86

演 ch.108

演 ch.113

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は丁奉(ていほう)、字は承淵(Shōen)である。今、一生を振り返って最も忘れがたいのは、後に大司馬にまで昇ったことではなく、東興(とうこう)の堤で吹雪に見舞われたことだ。魏軍は堤に迫り、数を頼みに私を侮っていた。私は留賛(りゅうさん)、
  • 私は丁奉(ていほう)、字は承淵(しょうえん)である。かつて魏の軍勢が大挙して東興(とうこう)に攻め寄せたとき、諸将の多くは、敵は太傅の到着を知れば、必ずや上陸をためらうだろうと考えていた。だが私は、敵が国内の兵をことごとく率いて来たからには
  • 我は丁奉(ていほう)、字は承淵、廬江郡安豊県の出身である。若い頃、勇猛さを買われて小将となり、甘寧(かんねい)・陸遜(りくそん)・潘璋(はんしょう)ら諸将に従って征伐に赴いた。軍列の中では、号令が下ればただちに身を奮い立たせて前進する。戦陣
生涯の大事12 ▸
  1. 江陵の戦い(こうりょうのたたかい)· 武将
  2. 曹丕の広陵の役(そうひのこうりょうのえき)· 武将
  3. 0252-01-01 · 東興堤
    丁奉の雪中短兵奮戦(ていほうのせっちゅうたんぺいふんせん)· 総大将
  4. 0252-01-01 · 東興堤
    東興の戦い(とうこうのたたかい)· 武将
  5. 諸葛恪の新城攻撃(しょかつかくのしんじょうこうげき)· 軍師
  6. 孫休による孫綝誅殺(そんきゅうによるそんちんちゅうさつ)· 総大将
  7. 孫綝の専政と孫休の復辟(そんちんのせんせいとそんきゅうのふくへき)· 武将
  8. 寿春の戦い・呉の諸葛誕援護(じゅしゅんのたたかい・ごのしょかつたんえんご)· 武将
  9. 臘日の宴における孫綝の誅殺(ろうじつのえんにおけるそんちんのちゅうさつ)· 武将
  10. 諸葛誕の寿春拠守と魏への反乱(しょかつたんのじゅしゅんきょもりとぎへのはんらん)· 武将
  11. 陸凱(りくがい)の孫晧廃位謀議· 首謀者
  12. 孫皓の継位と呉国の衰亡(そんこうのけいいとごこくのすいぼう)· 総大将