言語
王

曹魏(そうぎ) · 太尉

王祥(おうしょう)

字 休徵

登場回
3
台詞の記録
2
人間関係
1
内面の独白
1

史書の記載(Historical Record)

王祥(おうしょう)は、字を休徵といい、琅邪(ろうや)の人である。その人は至孝で知られ、とりわけ継母に対する恭順にそれが表れている。孫盛『雑語』の記載によれば、その継母は性情が苛烈で、たびたび王祥(おうしょう)を害そうとしたが、彼は終始孝順の心をもって仕え、いささかも怠ることがなかった。厳寒の冬、継母が生魚を食べたいと望むと、王祥(おうしょう)は衣を脱いで氷を割り魚を捕ろうとした。奇妙なことに、氷面はおのずから溶け、魚が躍り出たので、彼はこれをもって継母を養った。当時の人々は皆、これはその孝心が天地を感動させた結果だと考えた。王祥(おうしょう)は継母に三十余年仕え、継母が亡くなって後にようやく出仕したが、その淳厚で真摯な品徳は当時の人々に深く敬われた。

王祥(おうしょう)が出仕したのは年すでに五十余歳のときで、官職は次第に昇り司隷(しれい)校尉に至った。高貴郷公が入学した際、彼は三老に任じられた。その後、また司空・太尉などの要職を歴任した。司馬文王(司馬昭(しばしょう))が初めて晋王に封じられたとき、司空荀顗は王祥(おうしょう)にこれに敬を尽くすよう求めたが、王祥(おうしょう)は従わなかった。このことは『三少帝紀』に記されている。

魏の文帝曹丕(そうひ)が即位した後、王祥(おうしょう)は裨将軍を加えられ、益寿亭侯の爵を賜り、徐州(じょしゅう)刺史に遷り、威虜将軍を加えられた。この間、彼は琅邪(ろうや)の王祥を別駕に任じ、民事をことごとく彼に委任したので、当時の人々は多く彼が賢才を用いるに長けていると称えた。王祥(おうしょう)はまた利城の叛賊を討伐し、斬獲も多く、戦功を立てた。明帝が即位すると、王祥(おうしょう)は万年亭侯に改封され、邑二百戸を増され、以前と合わせて計六百戸となった。呂虔(りょけん)が亡くなると、その子の呂翻が爵を嗣ぎ、呂翻が亡くなると、その子の呂桂が爵を嗣いだ。

晋の武帝司馬炎(しばえん)が践祚した後、王祥(おうしょう)は太保に拝され、雎陵公に封じられた。泰始四年(268年)、王祥(おうしょう)は八十九歳の高齢で亡くなった。その弟の王覧は、字を玄通といい、官は光禄大夫に至った。『晋諸公賛』は王覧に素より至行があったと称える。王覧の子孫は繁衍昌盛し、賢才が相次いで多く、その一族の興盛のさまは、古今これに比肩しうるものが稀であった。

演義の記載(In the Novel)

『三国演義』において、王祥(おうしょう)の形象は、より深い智慧と洞察力を備えた朝廷の重臣として造形されており、とりわけ時局への判断と司馬(しば)一族への諫言にそれが表れている。小説では、王祥(おうしょう)が初めて登場するのは鍾会(しょうかい)が出師して蜀を伐つ際である。百官が見送り、旌旗が日を蔽い、人は強く馬は壮んで、人々が皆鍾会(しょうかい)の威風を羨むとき、ただ相国参軍の劉実だけが微笑して語らなかった。太尉王祥(おうしょう)は劉実が冷笑するのを見て、馬上で彼の手を握り、鍾会(しょうかい)と鄧艾(とうがい)がこのたび蜀国を平定できるかどうかを尋ねた。劉実は「蜀を破るは必定。ただ恐らくは皆都に還れぬのみ」と答えた。王祥(おうしょう)がその故を問うと、劉実はただ笑って答えず、王祥(おうしょう)もそれ以上問わなかった。この場面は、王祥(おうしょう)の鋭い観察力と他者の深い思慮への探究を示すとともに、劉実の予言の伏線を張り、間接的に王祥(おうしょう)が見識ある人物であることを際立たせている。

王祥(おうしょう)の小説におけるもう一つの重要な登場は、司馬昭(しばしょう)が晋王に封じられた後、その弟の司馬攸(しばゆう)を世子に立てようとした時である。当時、山濤(さんとう)・賈充(かじゅう)・何曾(かそう)・裴秀(はいしゅう)らの大臣は皆、長子の司馬炎(しばえん)を世子に立てるよう諫めた。太尉王祥(おうしょう)と司空荀顗もともに進諫し、「前代は少を立てて、多く国を乱した。願わくは殿下これを思え」と指摘した。最終的に、司馬昭(しばしょう)はその諫言に従い、長子の司馬炎(しばえん)を世子に立てた。この場面は、王祥(おうしょう)の朝廷における地位と影響力を際立たせるだけでなく、忠誠で先見の明ある臣下として、肝心な時に正しい進言を行い、国家の安定を維持できることをも強調している。

史料がその孝行と初期の仕途を強調するのに対し、『三国演義』はむしろ朝廷の重臣としての王祥(おうしょう)の政治的事件への参与と判断、とりわけ司馬(しば)氏専権の背景下で彼が示した智慧と正直さに重きを置いている。小説は「氷に臥して鯉を求む」などの孝行の事績には触れず、政治の舞台で役割を果たす儒雅な長者として彼を造形している。

主要な関係

* 呂虔(りょけん)(serves):史書では、王祥(おうしょう)は魏文帝に裨将軍を加えられ、益寿亭侯に封じられ、徐州(じょしゅう)刺史に遷り、威虜将軍を加えられた。この間、彼は琅邪(ろうや)の王祥を別駕とし、民事を一切これに委ねた。ここでの「琅邪(ろうや)の王祥」は伝主の王祥(おうしょう)とは別人だが、呂虔(りょけん)は王祥(おうしょう)の仕途における同僚あるいは上役として、史料の中で王祥(おうしょう)と関連がある。呂虔(りょけん)が亡くなった後、その子孫が爵位を継承したことも、王祥(おうしょう)の置かれた曹魏(そうぎ)官僚体系を側面から反映している。
* 曹魏(そうぎ)(serves):王祥(おうしょう)の仕途は曹魏(そうぎ)の時代に始まり、文帝曹丕(そうひ)が即位した後、彼は加封と官職を得た。明帝曹叡(そうえい)が即位すると、王祥(おうしょう)はまた改封された。これは王祥(おうしょう)が曹魏(そうぎ)政権の重要な官員の一人であり、その政治生涯が曹魏(そうぎ)王朝と緊密に結びついていたことを示している。
* 劉実(冷笑するのを見て手を握り問う):『三国演義』において、王祥(おうしょう)と劉実の間には意味深長な対話がある。王祥(おうしょう)は劉実が鍾会(しょうかい)の蜀伐に微笑して語らぬのを見て、自ら進んで問いかけ、王祥(おうしょう)の時局への鋭い洞察力と他者の深い思慮への探究を示した(演義独自)。
* 司馬昭(しばしょう)(諫言):王祥(おうしょう)は『三国演義』で荀顗とともに司馬昭(しばしょう)に長子の司馬炎(しばえん)を世子に立てるよう諫め、弟の司馬攸(しばゆう)ではないとし、「前代は少を立てて、多く国を乱した」と強調した(演義独自)。これは王祥(おうしょう)が朝中の重臣として、国家の長遠な発展に対し冷静な認識と責任感を持っていたことを体現している。

象徴的な場面

* 氷に臥して鯉を求む:これは王祥(おうしょう)の最も代表的な孝行の事績である。厳寒の冬、継母が生魚を食べたいという願いを満たすため、王祥(おうしょう)は衣を脱いで氷を割り、最終的に天を感動させて氷面がおのずから溶け、魚が躍り出た。この場面は王祥(おうしょう)の至孝の品徳を深く示し、後世の孝道の典範となった。『三国演義』ではこの場面に触れていないが、史伝においてこれは間違いなく王祥(おうしょう)の生涯で最も称えられる象徴的な出来事である。

* 劉実に蜀を破る局を問う:『三国演義』において、鍾会(しょうかい)が出師して蜀を伐つ際、王祥(おうしょう)は相国参軍の劉実が冷笑して語らぬのを見て、自ら進んで蜀伐の前途についての見解を尋ねた。劉実は「蜀を破るは必定。ただ恐らくは皆都に還れぬのみ」と予言し、王祥(おうしょう)がその故を問うと、劉実は笑って答えず、王祥(おうしょう)はそれ以上問わなかった。この場面は王祥(おうしょう)の鋭い洞察力と複雑な政治情勢への思考を示し、その後の鍾会(しょうかい)・鄧艾(とうがい)の結末の伏線ともなり、見識ある人物としての王祥(おうしょう)の形象を際立たせている(演義独自)。

* 司馬昭(しばしょう)に世子を立てるよう諫める:『三国演義』において、司馬昭(しばしょう)が司馬攸(しばゆう)を世子に立てようとしたとき、王祥(おうしょう)は司空荀顗とともに進諫し、「前代は少を立てて、多く国を乱した」と指摘し、長子の司馬炎(しばえん)を立てることを強く主張した。最終的に、司馬昭(しばしょう)はその進言に従い、司馬炎(しばえん)を世子に立てた。この場面は朝廷の重臣としての王祥(おうしょう)の政治的知恵と影響力を際立たせており、肝心な時の彼の建言は晋朝の安定に重要な役割を果たした(演義独自)。

人間関係

1 件の関係

台詞

  • 演 ch.116 §4

    「鍾、鄧二人,此去可平蜀乎?」

  • 演 ch.119 §30→ 司馬昭(しばしょう)

    「前代立少,多致亂國。願殿下思之。」

登場回3 回 ▸
  • 史ch.18
  • 演ch.116ch.119
関係の年表1 条 ▸

史 ch.18

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は王祥(おうしょう)、字は休徴(きゅうちょう)という。今は太尉の位にあり、国の重大な議論に加わるよう命じられている。これまでの人生を振り返れば、心に留めてきたのは礼を守り、己の務めを尽くすことにほかならず、己の好き嫌いで宗廟と社稷を軽々し