何定
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何定(かてい)は孫呉(そんご)末期に孫皓(そん こう)の寵臣となり、専権・讒言や狩猟への兵の動員で知られ、誅殺されたが『演義』には登場しない。
生涯
正史 6 巻
ランキング
各ランキングでの順位。
史載(史実)
何定は孫呉(そんご)後期、孫皓(そん こう)の寵愛を受けた近臣である。裴注に引く『江表伝』によれば、もとは孫権(そん けん)の給使で、後に宮廷を出て吏となり、さらに「先帝の旧臣」であると称して宮中への復帰を願い出た。孫皓は楼下都尉に任じ、酒や食糧の売買などを取り仕切らせた。その後、政務にも参与させ、殿中列将にまで昇進した。史書では、佞媚によって寵愛を得て、君主の信任を笠に着て勝手に権勢を振るった人物として記され、朝臣たちの批判の対象となった。
何定は私怨から少府の李勗(り きょく)を陥れたことがある。息子のために李勗の娘との縁談を求めたが断られると、孫皓に讒言した。その結果、李勗と徐存(じょ そん)の一族は処刑された。さらに何定は諸将に命じて遠方まで良犬を求めさせ、宮中で兎狩りをさせたが、費用は莫大で、得られたものはわずかだった。呉の人々は何定を非難したものの、孫皓はなお彼を忠勤であると考え、列侯に封じた。 賀邵(がしょう)は上疏し、孫皓が何定を寵愛して権限を与えたため、彼が専横して権勢をほしいままにしていると指摘した。また、江辺の守備兵を使って鹿を捕らえさせ、陵墓を造営させたことを批判し、兵士は疲弊し、民は怨嗟の声を上げていると述べた。
建衡二年、何定は五千人を率いて夏口(かこう)へ狩りに出た。当時、民間では孫皓が孫秀(そん しゅう)を討とうとしているとの噂が流れており、孫秀は恐れをなして、夜のうちに妻子と数百人の親兵を率いて晋へ奔った。陸凱(りくがい)は病が重い時にも、何定を任用せず、外任に就かせて国事に参与させないよう孫皓に勧めた。また、陸抗(りくこう)は上疏で「何定の専権、宦官の政務への介入」を時政上の問題の一つに挙げた。 鳳皇元年、何定は「奸秽発聞」を理由に処刑された。孫皓はその悪行が張布(ちょうふ)に似ていると考え、追って名を「布」に改めた。
演義(小説)
『三国志演義』にはこの人物は登場しない。現存する資料には、『三国志演義』などの小説における何定の筋書きや人物造形についての記述がないため、小説での言動、経歴、結末を付け加えることはできない。何定については、『三国志(さんごくし)』および裴注が引く資料に基づいてのみ記述できる。
重要な関係
何定と孫皓の関係の中心には、寵愛と信任があった。孫皓は何定に官職を与えて政務を任せ、呉の人々が彼を非難した際にも、なお封爵した。一方で、何定の専権と佞媚は大臣たちの諫言を招いた。 李勗との対立は、縁談を断られたことに始まり、讒言によって李勗が処刑されるに至った。このことは、私怨が近侍の権勢を通じて政治的な災厄へと変わるさまを示している。 陸凱は何定を面と向かって戒め、佞邪で国政を乱していると非難し、思いがけない災いが起こると予言した。何定はこれを恨み、陸凱を陥れようとした。陸凱は臨終の際にも、何定を外任に就かせ、国事を委ねるべきではないと主張した。 賀邵は朝政と民力の損耗の両面から、何定が寵愛を頼みに勝手に振る舞うことを批判した。陸抗もまた、何定の専権を宦官の干政の表れとして挙げた。
代表的な場面
権勢を利用した私怨の報復。何定は息子のために少府の李勗との縁談を求めたが、断られると孫皓に讒言した。李勗と徐存の一族は処刑された。この出来事は、宮廷における何定の影響力を示すとともに、朝臣たちの上疏で彼が批判の対象となった理由を明らかにしている。
兵を率いて夏口で狩りをする。建衡二年、何定は五千人を率いて夏口へ狩りに出た。孫秀はそれ以前から民間の噂を受けて疑い、恐れていたため、何定が遠方からやって来たのを見て、夜のうちに家族と親兵を連れて晋へ亡命した。このため、史書の記述では狩りと孫秀の出奔が続けて描かれているが、何定が孫秀を直接捕らえるよう命じられていたとは記されていない。
諫言と処刑。陸凱は何定の専権を面と向かって叱責し、病床にあっても孫皓に何定を外任に就かせるよう求めた。賀邵は、兵を使って鹿を捕らえさせ、陵墓を造営させたことを、民を疲弊させ、財を浪費する例として挙げた。鳳皇元年、何定はついに処刑され、孫皓は追ってその名を「布」に改めた。これをもって、寵愛を受けて政務を担った人物が処刑されるに至るまでの結末となった。
戦績
戦場の記録
原文に記された一騎討ち・討ち取り・処刑を、史書と演義に分けて数えます。
- 史巻48処刑敗「何定姦穢發聞,伏誅」

続けて読む
陸凱
敵対