臨終の状況
景元四年の冬から翌正月にかけては、鄧艾(とうがい)の人生の絶頂点 であると同時に崩落の時でもあった。成都(せいと)で蜀漢(しょくか ん)の接収を完了した彼は、大将としての便宜的権限を行使した。漢初 の旧臣安撫の例に倣い、劉禅(りゅう ぜん)を驃騎将軍に封じてその 臣属の体裁を保ち、蜀漢の旧吏をそれぞれに処遇した。これらの処置は 軍事的後処理の観点からは理にかなっていたが、司馬昭(しばしょう) の目には越権による「擅署官属」と映った。とりわけ「呉征討の準備」 への鄧艾の積極的な発言は、蜀滅亡の功績を利用して独立した権位を図 ろうとしていると解釈された。司馬昭は一方で衛瓘(えい か ん)を前線に派遣して鄧艾を監察させ、一方で詔を下して槛車で東方へ 召還させた。鄧艾が洛陽(らくよう)に着く前に、鍾会(しょうかい) が剣閣(けんかく)で反旗を翻して失敗し、魏軍は乱の中でそれぞれに 清算を行った。衛瓘は鄧艾が帰朝した後に逮捕の責任を追及されること を恐れ、護軍の田続(でんぞく)に命じて後から追撃させた。 田続と鄧艾の間にはもともと私的な恨みがあった——かつて江油の戦いで 田続は鄧艾に罰せられたことがあった。この手配は私怨を借りて公の命 令を了結させるものであった。最終的に鄧艾父子は綿竹(めんちく)の 近くで田続の部下によって斬られ、「国を滅ぼした大将──槛車に囚われ ──乱軍の中で命を落とす」という数か月の間の極端な浮沈に幕を引いた。
遺言または遺命
正史も演義も、鄧艾が殺される前の具体的な遺言を伝えていない。その 行動から推測できる態度は次のとおりである。鄧艾は衛瓘に拘束された 時もなお自分に罪はないと確信しており、強硬な態度で「旧吏への封授 は軍中において当然の権限だ」と繰り返し主張した。この態度こそが彼 が殺された原因であった。司馬昭が必要としていたのは、全ての功績を 晋公に帰して頭を低くして詫びる蜀滅亡の将領であったが、鄧艾が示し たのは「前線の統帥」としての自己規定を保ち続ける姿であった。その 意味において、鄧艾の「遺命」は実際には蜀漢旧臣への安撫の行為の中 に書かれていた。軍人として自分は前線で政治的決定を下す権限があると 信じ、その信念が彼を圧し潰す最後の一本の藁となった。
死後
鄧艾の死後、その家族も連座させられた。洛陽にいた諸子は殺され、妻 と孫は西域に流刑となった。泰始九年(273年)になってようやく、晋の 武帝が段灼の上書を受けて鄧艾の名誉を回復し、孫の鄧朗に郎中を追贈 した。「一朝に殺され、二十年後に昭雪される」というこの処置の模式 は、歴代において功が君主を震わすほどの大臣が辿る標準的な結末にほ ぼ等しい。衛瓘は鄧艾の死後に徐々に地位を上げ、最終的に西晋初年に は極位人臣に達した。執行者の田続は史書の評価こそ高くないが、罰せ られてもいない——これは、鄧艾の死に対する司馬昭の真の態度が「衛瓘 が擅権して人を殺した」というものではなく、この結果を黙認ないし期 待していたことを示唆している。
歴史的評価
鄧艾の死が中古軍事史上に持つ意義には三つの層がある。第一に、君主 による「過ぎて有能な辺将」への系統的な清算の古典的事例である——漢 の韓信・彭越から唐の李光弼に至るまで、この類の模式は繰り返し現れ、 鄧艾はその中でも代表的な一例に過ぎない。第二に、滅国戦という巨大 な政治的資本の「高い反動」を明らかにしている。誰であれその功を独 占すれば猜疑を免れない。分け合うことが常道であり、鄧艾は鍾会と分 け合うことも、司馬昭に向かって首を垂れることも拒み、最終的に両面 から絞り殺された。第三に、蜀漢の視点からは、鄧艾の急死はむしろ一 種の歴史的均衡となった。蜀を滅ぼした英雄がその年のうちに非業の死 を遂げ、栄華を享受するに至らなかったことを、後世の史家の一部は「 天道は巡る」の傍注と見なした。この叙事は感情的投影を多分に含むと はいえ、鄧艾の死が文化的次元においての反響が魏国の一方にとどまら ないことを示してもいる。
