戦略的背景
現代の戦史アナリストとして195年から199年にかけての江東を振り返ると、孫策(そん さく)が直面したのは分散して見えながら深く地域に根を張った戦場であった。劉繇(りゅう よう)は揚州刺史の官位と名分を持ちながら曲阿に拠り、厳白虎(げんはくこ)は呉郡に「東呉の徳王」を自称して割拠し、王朗(おうろう)は会稽(かいけい)太守の立場で郡を固守して傍観し、華歆(かきん)は豫章郡(よしょうぐん)を押さえて外援の役を担っていた。これらの勢力に共通するのは「守土に余力あれど、拡張に力なし」という特徴であった。孫策(そん さく)が各個撃破することができれば、外援なしに江東を統合することが可能であった。戦略地理の観点から見れば、長江下流の渡し場・太湖以東の水路網・銭塘江以南の丘陵が相互に連なる戦場を形成しており、「先に渡り・速やかに破り・連続して打つ」というリズムを掌握した者こそ、連合反撃を受けることなく統一を完成させることができた [c:16759]。
双方の兵力配置
孫策(そん さく)側の中核戦力は孫堅(そん けん)の旧部三千に朱治(しゅち)・呂範(りょはん)らの部曲を加えたものに、周瑜(しゅうゆ)が舒城から連れてきた精壮百名を加えたものであった [c:16758]。攻勢は兵を分けて展開した。朱治(しゅち)・呂範(りょはん)・程普(ていふ)・黄蓋(こうがい)・韓当(かんとう)が正面突撃を担い、周瑜(しゅうゆ)が側面から隠密に運動し、張昭(ちょうしょう)・張紘(ちょうこう)が後方で内政と外交を処理した。対する敵方では、劉繇(りゅう よう)が張英・樊能を牛渚に前陣として配し、腹心の将・太史慈(たいし じ)を神亭に駐屯させ、厳白虎(げんはくこ)は弟・嚴輿(げんよ)を楓橋に前軍として率いさせ、王朗(おうろう)は会稽(かいけい)の地の利を頼みに守りを固めた。全体として孫策(そん さく)軍は数では劣位であったが、兵は精強で指揮は一元化され意思決定は速かった。対して敵は数こそ多かったが分散して戦略的な連携が欠けており、地の利と名分だけを頼りにしていた。
決定的転換点
この戦役にはいくつかの決定的な瞬間があった。第一は神亭での一騎打ちである。孫策(そん さく)が自ら太史慈(たいし じ)と対決し、その勇武に太史慈(たいし じ)を感服させ、後の太史慈(たいし じ)の降伏の伏線を作った [c:16759]。第二は曲阿への奇襲である。周瑜(しゅうゆ)が兵を率いて劉繇(りゅう よう)の背後に回り曲阿を取ると、前陣で程普(ていふ)と交戦中の太史慈(たいし じ)が「周瑜(しゅうゆ)が曲阿を奇襲し陳武(ちんぶ)が接応して入城した」という報を聞き、劉繇(りゅう よう)の全軍は意気消沈して急遽退却した。張昭(ちょうしょう)はただちに夜襲の計を献じた [c:16759][c:16760]。第三は秣陵での死亡偽装である。孫策(そん さく)が流れ矢を受けた後、軍中に「主将が戦死した」と偽りを吹き込み、全軍を引き払って敵を城外に誘い出した。この心理戦は江東平定期間中において最も巧妙な戦術運用であった [c:16761]。第四は嚴輿(げんよ)の処断である。孫策(そん さく)は陣中で「鼠輩よ、どうして余と対等であろうか」と飛剣で嚴輿(げんよ)を斬り、首級を城内へ送り届けることで厳白虎(げんはくこ)を城を捨てて逃走させた [c:16763]。第五は会稽(かいけい)に対しては、まず血を流さずに降伏させることを優先しつつ必要なら強攻するという複合戦略を採り、最終的に王朗(おうろう)を敗走させ、董襲(とうしゅう)が厳白虎(げんはくこ)の首級を献上して江東の東路が平定された [c:16765]。
結果とその波紋
この戦役の結果は六郡の易主にとどまらなかった。第一に、江東に真に統一された政治・軍事の中心が初めて出現し、孫策(そん さく)の礼遇のもとで地方大族が新政権に加わり始め、劉繇(りゅう よう)の旧部の多くが赦免・吸収された。第二に、孫策(そん さく)の軍事的威望は一気に許都(きょと)まで届き、曹操(そうそう)は孫策(そん さく)を討逆将軍・呉侯に封じ通婚によって取り込もうとせざるを得なくなった。曹操(そうそう)が「この獅子の子とは争えぬ」と嘆いたのは、まさにこの時期の江東軍勢に対する冷静な評価から生まれた言葉である [c:16767]。第三に、199年に廬江(ろこう)を再び奇襲して劉勲(りゅうくん)を破ったことで江東の勢力が北方の合肥(がっぴ/ごうひ)前線まで延伸し、曹操(そうそう)勢力と直接隣接するに至った。この地政学的状況こそ、後の孫曹関係におけるあらゆる衝突の物質的起点であった。第四に、この連続した戦役が高水準の軍政チームを鍛え上げた。程普(ていふ)・黄蓋(こうがい)・韓当(かんとう)・太史慈(たいし じ)・張昭(ちょうしょう)・張紘(ちょうこう)・周瑜(しゅうゆ)、このチームは赤壁(せきへき)・合肥(がっぴ/ごうひ)、さらにその後の東呉数十年の戦争の中核班底であり続けた。
反事実の推演
仮に孫策(そん さく)が神亭での一騎打ちで太史慈(たいし じ)に敗北するか、秣陵で流れ矢を受けた際に死亡偽装で敵を誘い出すことができなかったとすれば、どの決定的な局面での失敗も江東の戦局を膠着状態に陥らせ、劉繇(りゅう よう)・厳白虎(げんはくこ)・王朗(おうろう)が時間を得て連合反撃を組織する機会を与えただろう。また仮に袁術(えんじゅつ)が孫策(そん さく)の「借兵して自立する」意図を早く見抜き、出兵後に兵糧を断つか家族を人質に取っていたとすれば、孫策(そん さく)の南下はそもそも成り立たなかった。さらに仮に曹操(そうそう)が200年以前に江東へ南下し、劉繇(りゅう よう)の旧部と厳白虎(げんはくこ)の残衆を利用して内応外攻の形を作っていたとすれば、孫策(そん さく)は統一の途中で反撃を受けて殲滅されていたかもしれない。しかしこれらの想定はいずれも実現しなかった。その理由は、孫策(そん さく)が袁術(えんじゅつ)と曹操(そうそう)の間の戦略的隙間をとらえ、江東各家の「守土に余力あれど拡張に力なし」という弱点をとらえ、精鋭チームの協調という優位性をとらえたからである。より巨視的な視点から見れば、孫策の江東平定戦(そんさくのこうとうへいていせん)は三国(さんごく)初期において最も鮮やかな征服戦の一つであった。四年の間に・三千の兵を起点として・六郡を平定し・準国家を建立するという執行の速度と質は、漢末の乱世においてほぼ他に類を見ないものであった。だからこそそれが直接、「二強の覇権争い」から「三足鼎立」へと三国(さんごく)の状況が変容するための最終的な枠組みを決定したのである。
