臨終情境
建興七年(229年)、趙雲(ちょううん)はすでに七十歳を超えていた。建安五年(200年)に鄴(ぎょう)で劉備(りゅうび)に投じて以来、彼は劉備(りゅうび)に約三十年にわたって従い、公孫瓚(こうそんさん)の部曲から蜀漢(しょくかん)の鎮南将軍へと至るまで、劉備(りゅうび)勢力の拡張における主要な節目のほぼすべてに参与した。長坂(ちょうはん)での単騎による阿斗救出、漢水(かんすい)での空営による曹軍撃退、入蜀後の各郡平定、夷陵の戦い(いりょうのたたかい)では江州(こうしゅう)の留守を担い、第一次北伐(だいいちじほくばつ)では諸葛亮(しょかつりょう)に従って箕谷へ出陣した。建興六年(228年)の街亭(がいてい)敗北後、諸葛亮(しょかつりょう)は自ら三等降格し、後軍主将であった趙雲(ちょううん)も「衆を収めて固く守り、大敗に至らなかった」と自ら申し出て鎮軍将軍に降格された。これが彼の生涯最後の出征であった。翌年の春、趙雲(ちょううん)は成都(せいと)にて病没した。演義では第97回において、この死を格別に劇的に描いている [c:17870]。庭前の松が風に折れ、孔明が占いを行い、子の趙統(ちょうとう)・趙廣(ちょうこう)が訃報を届け、孔明が盃を投げて大いに慟哭するという場面は、ほぼ各細部が「蜀漢(しょくかん)一代の名将の時代が終わった」ことを読者に暗示するものとなっている。正史の記録は相対的に簡素で、建興七年に卒し、追諡して順平侯としたとある。しかし正史であれ演義であれ、この節は自然に「五虎上将」の中の最後の老将の帰結として描かれている。関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)・馬超(ばちょう)・黄忠(こうちゅう)はすでに先に死んでおり、趙雲(ちょううん)の逝去は劉備(りゅうび)時代の最後の武将の凋零を意味した。
遺言或遺命
正史には趙雲(ちょううん)の臨終の遺言の詳細な記録はないが、趙雲(ちょううん)の生涯において後世の史家と文学が繰り返し引用するいくつかの言葉は、彼の精神的遺命とみなすことができる。その一は、益州(えきしゅう)入り後の田地分配の際に諸将へ諫言した言葉である。「霍去病は匈奴がいまだ滅びていないことを以て家を持たないとした。今、国の賊は匈奴のみではない、まだ安逸を求める時ではない」と述べ、劉備(りゅうび)が益州(えきしゅう)入り後に田宅を諸将に分け与えることに反対し、百姓へ返還するよう主張した。これは蜀漢(しょくかん)初期の文官化と民生政治における重要な転換点であった。その二は、夷陵の戦い(いりょうのたたかい)の前に劉備(りゅうび)へ単独で諫言した言葉である。「国の賊は曹丕(そうひ)であり、孫権(そんけん)ではない。まず魏を滅ぼせば呉は自ずと服する」と述べ、劉備(りゅうび)に関羽(かんう)の仇討ちのために東征することを思い止まるよう諫めた。これは蜀漢(しょくかん)の武将の中で極めて少数の、戦略的視点から判断できる言葉であったが、残念ながら劉備(りゅうび)には受け入れられなかった。これらの二つの「遺命」の深遠さは、一般的な臨終の遺言を遥かに超えている。それらは武将としての趙雲(ちょううん)の政治的節制を体現している。軍功のために民を扰かさず、個人的感情によって国策を動かされることもなかった。この品格こそが、五虎の中で彼の地位が最も低く、爵位が最も軽かった原因であるが、一方で評判は最も高かった理由でもある。
身後事
趙雲(ちょううん)の死後、後主の劉禅(りゅうぜん)は大将軍を追贈し、順平侯と諡した。成都(せいと)の錦屏山東側に葬り、廟を立てて四季に祭祀を行った。「順平」という二字の諡号は蜀漢(しょくかん)において極めて稀であった。「柔賢慈恵を順と曰い、執事有制を平と曰う」とあり、これは趙雲(ちょううん)の生涯における政治と軍事の均衡に対する公式な認定であった。長男の趙統(ちょうとう)は爵位を継承し、牙門将を務め、後に虎賁中郎将・督行領軍に至った。次男の趙廣(ちょうこう)は牙門将となり、景耀年間に姜維(きょうい)に従って沓中(とうちゅう)へ出征し、戦陣において節義のうちに死んだ。趙廣(ちょうこう)の戦死の意義は個人にとどまらず、趙雲(ちょううん)の家族が二代にわたって完全に「武将の家系が代々奉公する」という蜀漢(しょくかん)の理想を体現したことを示している。延熙年間に姜維(きょうい)が主政した後、蜀漢(しょくかん)の武将体系に、趙雲(ちょううん)のように「臨戦に突撃できながら朝廷でも重きをなす」人物は二度と現れなかった。趙雲(ちょううん)の死から蜀漢(しょくかん)の滅亡(しょくかんのめつぼう)までの三十四年間、蜀漢(しょくかん)の軍事的決策はますます急進的になり、趙雲(ちょううん)が体現した「武将の節制」の精神からかけ離れていった。
历史評価
趙雲(ちょううん)の三国志(さんごくし)における列伝の位置は示唆に富んでいる。陳寿(ちんじゅ)は彼を関・張・馬・黄とともに『関張馬黄趙伝』に収録しているが、筆墨は相対的に少なく、評価は「黄忠(こうちゅう)・趙雲(ちょううん)は強くて頑強で、ともに爪牙となり、まるで灌(えい)・滕(とう)の徒の如し」に集中している。つまり彼を漢初の灌嬰・夏侯嬰のような将佐に比している。この「将佐」という位置づけは、演義における「五虎上将の一」という伝説的イメージとかなりのずれがある。鍵となるのは、陳寿(ちんじゅ)が列伝を書いた時には蜀漢(しょくかん)はすでに滅んでおり、彼は蜀漢(しょくかん)の旧文書を取材していたが、趙雲(ちょううん)の爵位・功業は関張に比べて確かに一段下であったという点にある。しかし趙雲(ちょううん)が政治的節制、文官との意思疎通、撤退時の殿後などの面で示した能力は、陳寿(ちんじゅ)の簡潔な筆では十分に表現できなかった。演義においては、趙雲(ちょううん)が「将佐」から「五虎」へと引き上げられ、長坂(ちょうはん)での主君救出・空営での曹軍撃退・漢水(かんすい)大戦などの物語が繰り返し磨き上げられて、中国民間で最も親しまれた武将のイメージとなった。この「正史は朴素で演義は高揚する」という落差そのものが、趙雲(ちょううん)のイメージ変化の精彩なる見本である。どの角度から見ても、趙雲(ちょううん)の死は蜀漢(しょくかん)建国一世代の武将の最後の脚注である。以後の蜀漢(しょくかん)には彼のように武勇・政治的節制・道徳的威望を兼ね備えた人物は二度と現れなかった。
