史書の記載(Historical Record)
王粛(おうしゅく)は、字を子雍といい、会稽(かいけい)に生まれ、十八歳のときに宋忠(そうちゅう)に従って『太玄』を学び、これをさらに深く解読することができた。黄初年間、彼は散騎黄門侍郎に任じられた。太和三年、散騎常侍に昇った。翌年、大司馬曹真(そうしん)が蜀を征したとき、王粛(おうしゅく)は上疏して、軍を進めて険阻に深入りし糧草が続かぬ弊害を力説し、「千里に糧を馈れば、士に飢色あり、樵蘇して後に爨げば、師は宿として飽かず」と指摘し、武王の紂を伐ち、武・文の権を征したことを例に挙げ、天に順い時を知り、権変に通じることの重要性を強調した。彼の建議は最終的に曹真(そうしん)を罷兵させた。彼はまた上疏して大臣のために哀を発し、果を宗廟に荐めるよう建議し、「無事の位を除き、不急の禄を損ず」 などの政本改革を提起し、五日視朝の儀を恢復して、官職に実があり各々その事を尽くすようにすることを主張した。
青龍年間、山陽公(漢の献帝)が薨じ、王粛(おうしゅく)は上疏して「漢孝献皇帝」と追諡することを建議し、「皇」と「帝」の称謂の差異を解釈し、「皇」はその差軽き者であって、「土に二王なし」の嫌を避けるためと考えた。しかし、明帝は採らず、最終的に漢孝献皇帝と追諡した。この後、王粛(おうしゅく)は常侍領秘書監を務め、崇文観祭酒を兼ねた。景初年間、宮室の興建が民生の困頓と刑殺の倉促を招いた問題に対し、王粛(おうしゅく)は再び上疏して、「生民いくばくもなく、干戈いまだ戢まらず、誠に宜しく民を息めて、これに恵むに遐邇を安静にする時をもってすべきなり」と指摘した。彼は不急の功を停め、役夫を遣散して農に帰すよう建議し、国家は信を本とすべきで、民に信を失うことを避けるよう強調した。彼はまた当時の倉促な刑罰に異議を唱え、張釈之と周公の典故を引いて、人命は至重であり、刑罰は慎重であるべきと強調した。
正始元年、王粛(おうしゅく)は広平太守に出た。彼はかつて故隠士の張臶(ちょうせん)を深く痛惜し、その家を表彰するよう命じて、逝者を慰め後人を勧めた。後に公事のため召し戻され、議郎に拝され、まもなく侍中・太常に昇った。当時、大将軍曹爽(そうそう)が専権し、何晏(かあん)らを任用したが、王粛(おうしゅく)はかつて正色して彼らを「弘恭・石顕の属」と批判し、曹爽(そうそう)の警戒を引き起こした。後に宗廟の事によって免職され、光禄勲に復した。武庫の屋上に二条の魚が現れ、有司は吉祥と考えたが、王粛(おうしゅく)は「魚は淵に生じて屋に亢る、介鱗の物その所を失えるなり。辺将それほとんど甲を棄つるの変あらんか」と考え、後の東関の敗を予言した。後に河南尹に転じた。
嘉平六年、王粛(おうしゅく)は節を持ち太常を兼ね、法駕を奉じて高貴郷公を元城に迎えた。同年、白気が天を経り、司馬景王(司馬師(しばし))がその故を問うと、王粛(おうしゅく)は「これ蚩尤の旗なり、東南それ乱あらんか」と答え、景王に己を修め民を安んずるよう勧めた。翌年、毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)が反すると、景王は再び王粛(おうしゅく)に安国の策を請うた。王粛(おうしゅく)は関羽(かんう)が荊州(けいしゅう)を失ったことを例に、淮南の将士の家属を撫恤し、その帰路を断てば、必ずこれを「土崩の勢い」にできると建議した。景王はその計を採り、最終的に叛乱を平定した。この後、王粛(おうしゅく)は中領軍に遷り、散騎常侍を加えられ、邑三百戸を増され、計二千二百戸となった。甘露元年、王粛(おうしゅく)は逝去し、享年六十二歳、門生で縗絰した者は百を数えた。衛将軍を追贈され、景侯と諡された。その子の王恽が位を嗣いだが、子嗣がなく、国は絶えた。景元四年、王粛(おうしゅく)の子の王恂が蘭陵侯に封じられた。咸熙年間、王恂はまた氶子に改封された。王粛(おうしゅく)の女は司馬文王(司馬昭(しばしょう))に嫁ぎ、すなわち文明皇后であり、晋の武帝司馬炎(しばえん)と斉献王司馬攸(しばゆう)を生んだ。
演義の記載(In the Novel)
『三国演義』において、王粛(おうしゅく)の形象は主に朝政への諫言と司馬(しば)氏への輔佐に集中しており、その亮直多聞の性格的特徴がさらに文学的に渲染されている。
第九十九回、曹真(そうしん)と司馬懿(しばい)が蜀を伐ち、連日の大雨により軍が困窮した。黄門侍郎の王粛(おうしゅく)は魏主に上疏し、「千里に糧を馈れば、士に飢色あり。樵蘇して後に爨げば、師は宿として飽かず」と指摘し、険阻に深入りし糧草が続かぬ弊害を詳しく分析して、休兵を建議した。この場面は曹真(そうしん)が蜀を征したとき王粛(おうしゅく)が上疏して諫言した史実の記載とおおむね一致し、軍事戦略における王粛(おうしゅく)の先見を体現している。
第一百零九回、高貴郷公曹髦(そうぼう)が司馬師(しばし)に迎えられて帝に立てられた。迎接の儀式で、曹髦(そうぼう)が文武百官に答礼しようとすると、太尉王粛(おうしゅく)は直ちにこれを制し、「主上は答礼すべからず」と称し、君主の尊厳を維持し礼制を恪守する立場を彰した。この細部は史伝には明確な記載がなく、演義が曹髦(そうぼう)の謙遜と王粛(おうしゅく)の礼法への忠を造形するために行った芸術的加工である。
第一百一十回、司馬師(しばし)は左眼の肉瘤により病重となり、淮南が告急した。彼は太尉王粛(おうしゅく)に対策を請うた。王粛(おうしゅく)は再び関羽(かんう)が荊州(けいしゅう)を失ったことを例に挙げ、淮南の将士の家属を撫恤し、その帰路を断ち、これを「土崩の勢い」にするよう建議した。この策は史実の記載とおおむね合致し、軍事分析における王粛(おうしゅく)の独自の見解を再び際立たせている。司馬師(しばし)が病逝した後、司馬昭(しばしょう)が洛陽(らくよう)に帰るかどうか躊躇すると、王粛(おうしゅく)はまた魏主曹髦(そうぼう)に司馬昭(しばしょう)を封爵してその心を安撫するよう建議し、自ら詔を持って赴いた。これは朝中の重臣としての王粛(おうしゅく)が、肝心な時に政局の安定のために謀を巡らす形象をさらに強めている。
主要な関係
* 宋忠(そうちゅう)(student_of):王粛(おうしゅく)は少年時に宋忠(そうちゅう)に従って『太玄』を学んだ。
* 曹魏(そうぎ)(serves):王粛(おうしゅく)は生涯曹魏(そうぎ)政権に効力し、散騎黄門侍郎・散騎常侍・秘書監・太常・光禄勲・河南尹などの要職を務めた。
* 張臶(ちょうせん)(advises_in):王粛(おうしゅく)はかつて故隠士の張臶(ちょうせん)を深く痛惜し、その家を表彰するよう命じて、逝者を慰め後人を勧めた。
* 司馬師(しばし)(advises_in):王粛(おうしゅく)は司馬師(しばし)に幾度も進言献策し、毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)の乱を平定する策略を含む。
* 司馬昭(しばしょう)(father_in_law_of):王粛(おうしゅく)の女は司馬文王(司馬昭(しばしょう))に嫁ぎ、晋の武帝司馬炎(しばえん)の母である。
* 曹髦(そうぼう)(advises_in):王粛(おうしゅく)は高貴郷公曹髦(そうぼう)が即位した際、君主の礼儀に注意するよう促した(演義独自)。
象徴的な場面
* 曹真(そうしん)の蜀伐を諫止:曹真(そうしん)が蜀を征したとき、王粛(おうしゅく)は上疏して険阻に深入りし糧草が続かぬ弊害を力説し、最終的に曹真(そうしん)を罷兵させ、より大きな損失を避けた。この出来事は『三国演義』でも詳しく描かれ、王粛(おうしゅく)の卓越した先見を強調している。
* 「皇」と「帝」を論ず:山陽公(漢の献帝)が薨じた後、王粛(おうしゅく)は上疏して「漢孝献皇帝」と追諡することを建議し、「皇」と「帝」の称謂の差異について論述し、礼制と歴史への深い理解を体現した。
* 曹爽(そうそう)の用人を批判:曹爽(そうそう)の専権の時期、王粛(おうしゅく)はかつて正色してその何晏(かあん)らの任用を「弘恭・石顕の属」と批判し、その亮直敢言の性格を示した。
* 東関の敗を予言:武庫の屋上に二条の魚が現れ、有司は吉祥と考えたが、王粛(おうしゅく)はこれを「介鱗の物その所を失えるなり」と考え、後の東関の敗を予言して、その鋭い洞察力を示した。
* 淮南の乱を平定する策を献ず:毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)が反すると、王粛(おうしゅく)は関羽(かんう)が荊州(けいしゅう)を失ったことを例に、司馬景王(司馬師(しばし))に淮南の将士の家属を撫恤し、その帰路を断つよう建議し、首尾よく叛乱を平定した。この場面は『三国演義』でも描かれ、王粛(おうしゅく)の軍事的謀略を際立たせている。
* 曹髦(そうぼう)の答礼を諫止:高貴郷公曹髦(そうぼう)が即位した際、曹髦(そうぼう)が文武百官に答礼しようとすると、王粛(おうしゅく)は直ちにこれを制し、君主の尊厳を維持した(演義独自)。
人間関係
8 件の関係
名言
全 18 件の台詞 · 厳選 3 件
「千里饋糧,士有飢色﹔樵蘇後爨,師不宿飽。」
この一句は古代における行軍の兵糧補給の困難さを言い当てており、広く流布した俗諺となった。
「昔關羽率荊州之衆,降于禁於漢濵,遂有北向爭天下之志。後孫權襲取其將士家屬,羽士衆一旦瓦解。今淮南將士父母妻子皆在內州,但急往禦衞,使不得前,必有關羽土崩之勢矣。」
この計策は関羽(かんう)が荊州(けいしゅう)を失った例を挙げ、司馬師(しばし)の反乱平定に重要な戦略的参考を提供している。
「大魏承百王之極,生民無幾,干戈未戢,誠宜息民而惠之以安靜遐邇之時也。夫務畜積而息疲民,在於省傜役而勤稼穡。今宮室未就,功業未訖,運漕調發,轉相供奉。是以丁夫疲於力作,農者離其南畒,種穀者寡,食穀者衆,舊穀旣沒,新穀莫繼。斯則有國之大患,而非備豫之長策也。今見作者三四萬人,九龍可以安聖體,其內足以列六宮,顯陽之殿,又向將畢,惟泰極已前,功夫尚大,方向盛寒,疾疢或作。誠願陛下發德音,下明詔,深愍役夫之疲勞,厚矜兆民之不贍,取常食廩之士,非急要者之用,選其丁壯,擇留萬人,使一朞而更之,咸知息代有日,則莫不恱以即事,勞而不怨矣。計一歲有三百六十萬夫,亦不爲少。當一歲成者,聽且三年。分遣其餘,使皆即農,無窮之計也。倉有溢粟,民有餘力:以此興功,何功不立?以此行化,何化不成?夫信之於民,國家大寶也。仲尼曰:『自古皆有死,民非信不立。』夫區區之晉國,微微之重耳,欲用其民,先示以信,是故原雖將降,顧信而歸,用能一戰而霸,于今見稱。前車駕當幸洛陽,發民爲營,有司命以營成而罷。旣成,又利其功力,不以時遣。有司徒營其目前之利,不顧經國之體。臣愚以爲自今已後,儻復使民,宜明其令,使必如期。若有事以次,寧復更發,無或失信。凡陛下臨時之所行刑,皆有罪之吏,宜死之人也。然衆庶不知,謂爲倉卒。故願陛下下之於吏而暴其罪。鈞其死也,無使汙于宮掖而爲遠近所疑。且人命至重,難生易殺,氣絕而不續者也,是以聖賢重之。孟軻稱殺一無辜以取天下,仁者不爲也。漢時有犯蹕驚乘輿馬者,廷尉張釋之奏使罰金,文帝恠其輕,而釋之曰:『方其時,上使誅之則已。今下廷尉。廷尉,天下之平也,一傾之,天下用法皆爲輕重,民安所措其手足?』臣以爲大失其義,非忠臣所宜陳也。廷尉者,天子之吏也,猶不可以失平,而天子之身,反可以惑謬乎?斯重於爲己,而輕於爲君,不忠之甚也。周公曰:『天子無戲言;言則史書之,工誦之,士稱之。』言猶不戲,而况行之乎?故釋之之言不可不察,周公之戒不可不法也。」
この諫言は王粛(おうしゅく)の民の苦しみへの気遣いと、国家統治に対する深い見識を体現している。
登場回7 回 ▸
- 史ch.11ch.13ch.27ch.29
- 演ch.99ch.109ch.110
関係の年表5 条 ▸
史 ch.11
- 張臶(ちょうせん)§71
advises_in
王肃至广平,慰问臶家"显题门户"
史 ch.13
- 宋忠(そうちゅう)§36
student_of
年十八从宋忠读《太玄》
- 司馬師(しばし)§41
advises_in
大将军司马景王问肃其故;从其策破毌丘俭、文欽
- 司馬昭(しばしょう)§41
kin_of
肃女适司马文王,即文明皇后
演 ch.99
- 曹叡(そうえい)§27
advises_in
上疏谏止霖雨深险用兵
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私が生涯守ってきたのは、経書を読み道理を究め、事に臨んでは言うべきことを尽くすことにすぎない。正始の初め、私は広平から朝廷に入り、曹爽(そうそう)が権力を独占し、何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)らが要職に就いているのを見て、蔣済(しょうせい
- 宮殿の造営が幾年も続き、役夫たちは寒風の中で土を運んでいる。その一方で、田疇(でんちゅう)では人手がすべて徴発され、耕す者がほとんどいない。倉の新穀と古穀が途切れずにあるかを思うたび、国の根本は殿宇の高さや広さではなく、民が生業に安んじ、そ
- 昔、私が十八歳の頃、宋忠(そうちゅう)に従って『太玄』を学び、章句の意味を求めるだけでなく、自ら解釈を加えたこともあった。経籍の奥深い意味は、繰り返し味わい、思索してこそ、その趣旨を理解できる。書物を読んでも、ただ事物の名を覚えるだけで道理
生涯の大事1 ▸
- 0255-01-01 · 寿春(じゅしゅん)毌丘倹・文欽の乱(かんきゅうけん・ぶんきんのらん)· 軍師