史載(Historical Record)
曹彰(そうしょう)は字を子文といい、魏の武帝曹操(そうそう)と武宣皇后卞氏(べん こうごう)との間に生まれた次子であり、文帝曹丕(そうひ)の弟、陳思王曹植(そうしょく)の兄である c:2147。彼は幼少より非凡な軍事的才能を示し、騎射に長け、膂力は人並み外れ、素手で猛獣と格闘できるほどであり、性情は慷慨豪快で、艱難をも恐れなかった。曹操はかつてこの尚武の精神に懸念を抱き、「書を読んで聖道を慕おうとせず、汗馬に乗り剣を撃つことを好む。これは一夫の用にすぎず、何ぞ貴ぶに足らんや」と評し、『詩』『書』を学ぶよう勧めたこともあった。しかし曹彰の志は堅く、かつて「大丈夫たる者、ひとたび衛青・霍去病のごとく十万騎を率いて沙漠を駆け、戎狄を駆逐し、功を立てて号を建てるべきである。どうして博士などになれようか」と語った。あるとき曹操が諸子に志を問うた際、曹彰は明確に「将となることを好む」と表し、その為将の道を「堅き鎧を被り鋭き武器を執り、難に臨んで顧みず、士卒に先んじる。賞は必ず行い、罰は必ず信あらしめる」と述べた。曹操はこれを聞いて大いに笑い、その志を称賛した c:5560。
建安二十一年(216年)、曹彰は鄢陵侯に封じられた c:5560。建安二十三年(218年)、代郡の烏丸が反乱を起こし、曹彰は北中郎将に任じられ、驍騎将軍を行(代行)として、北征を命じられた。出発に際し、曹操は心を込めて「家にあっては父子、職務にあっては君臣である。事を行うには王法に従え。汝、これを戒めよ」と諭した。曹彰が涿郡(たくぐん)の境内に入った際、数千の叛胡の騎兵に急襲された。当時、兵馬はまだ集結しておらず、彼はわずかに歩卒千人、騎兵数百を率いるのみであった。田豫(でんよ)の進言を採用し、要害を固守して敵軍を退散させた。続いて曹彰は軍を率いて追撃し、自ら士卒に先んじて手ずから戦い、矢は外れることなく、射倒した胡騎は前後に連なった。激戦半日、曹彰の鎧には数か所に矢が刺さったが、闘志はますます高まり、勝ちに乗じて桑乾まで追撃し、代郡から二百余里に達した。長史や諸将は、新たに遠地に踏み込み、士馬は疲弊し、また節度(命令)により代を越えてはならぬとされていたため、深入りすべきでないと考えた。しかし曹彰は「師を率いて行くからには、ただ利のある所に向かうのみ。何の節度があろうか。胡はまだ遠くへ逃げていない。追えば必ず破れる。命に従って敵を逃がすのは良将ではない」と主張し、「後れて出る者は斬る」と令を下し、一日一夜で敵軍に追いつき、これを大破して、斬首と捕虜あわせて数千を得た。戦後、曹彰は常の規定に倍する重い賞を将士に与え、軍心は大いに喜んだ。当時、鮮卑の大人軻比能(かびのう)が数万騎を率いて戦局を傍観していたが、曹彰の神勇善戦、向かう所敵なしを見て、帰順を願い出た。ここに至り、北方はことごとく平定された c:2145。
曹彰が凱旋した後、曹操は長安(ちょうあん)で彼を召見した。曹彰が鄴(ぎょう)を通った際、太子曹丕はかつて「自らを誇るな。常に足らざる者のように振る舞え」と勧めた。曹彰はその言に従い、功を諸将に帰した。曹操は大いに喜び、その鬚を撫でて「黄鬚児(黄色い鬚の子)はまことに大したものだ」と称賛した c:2145。曹操が東へ還った後、曹彰を越騎将軍の行(代行)とし、長安の留守を命じた。曹操が洛陽(らくよう)で病が重くなると、駅伝で曹彰を召したが、曹彰が到着する前に曹操はすでに崩御していた c:5562。曹丕が王位に即くと、曹彰は諸侯とともに封国に赴いた。黄初二年(221年)、曹彰は爵を進めて公とされ、邑五千戸を加えられ、前と合わせて一万戸となった c:5562。黄初三年(222年)、任城王に立てられた c:5562。黄初四年(223年)、曹彰は京都に入朝したが、邸中で突然薨去し、諡を威とされた c:5562。その死因について『魏氏春秋』は、曹彰がかつて璽綬について尋ねて異志を抱いていたため、来朝してもすぐには謁見を許されず、憤怒して急死したと記している c:5562。その子曹楷が爵位を嗣ぎ、後に任城国に改封され、五県二千五百戸を食邑とした c:5562。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』では、曹彰の人物像は史実を基礎としつつ芸術的に加工され、とりわけその軍事的才能と性格的特徴が強調され、劇的な情節が加えられている。彼が初めて登場するのは曹操の漢中征討(そうそうのかんちゅうせいとう)の期間である。曹操が劉備(りゅうび)軍に包囲され、許褚(きょちょ)が負傷し、情勢が危急となったとき、曹操はかつて劉備を罵って「履を売る小僧め、いつも仮の子に敵を防がせている。わしが黄鬚児を呼べば、お前の仮の子など肉泥にしてくれるわ」と言った c:2148。続いて曹彰は援軍を率いて間に合うように駆けつけ、曹操の包囲を解いた。小説の中で曹彰は驍勇善戦であるのみならず、その姿は鮮明であり、曹操が彼を「黄鬚児」と呼ぶことは、その鬚の色が常人と異なることを示すと同時に、その勇猛な性格をも暗示している c:2148。
『演義』における曹彰の軍事的才能の描写はより誇張されている。曹操を救う戦いの中で、彼は劉封(りゅうほう)と交戦し、「わずか三合で劉封は大敗して退いた」。続いて吳蘭との対陣では、曹彰は「一戟で吳蘭を馬下に刺し殺し」、その超人的な武力を示した c:2149。小説はまた曹彰の烏桓征伐(うがんせいばつ)の経歴を詳しく描き、彼が「自ら戦陣に先んじ、まっすぐ桑乾まで殺し進み、北方はみな平定された」ことを強調しており、史実とおおむね一致するが、より個人的英雄主義の表現に重きを置いている c:2149。
曹操の臨終に際し、『演義』では曹操が諸子を評価する場面でも、再び曹彰に言及している。曹操は「次子の曹彰は、勇なれども謀なし」と考え、「虚華にして誠実少なき」曹植や「病多くして保ち難き」曹熊(そうゆう)と区別し、最終的に「篤厚恭謹」な曹丕を後継に選んだ c:2150。
曹操の死後、曹彰は十万の大軍を率いて長安から弔問に駆けつけた。曹丕はこれを聞いて大いに驚き、「黄鬚の弟は、平素より性が剛く、武芸に深く通じている。今、兵を提げて遠くから来たのは、必ずや孤と王位を争うためであろう」と心配した c:5565。賈逵(かき)が進み出て曹彰に会い、「家に長子あり、国に儲君あり。先王の璽綬は、君侯の問うべきものではない」という厳正な言葉で曹彰を屈服させた。曹彰は最終的に「わしは弔問に来ただけで、別に異心はない」と表し、随行の将士を叱って退け、単身で宮に入り曹丕に拝謁し、本部の軍馬をことごとく曹丕に引き渡した。曹丕は曹彰に鄢陵に帰って自ら守るよう命じた c:11267。この情節は史書には明確な記載がなく、『演義』が曹丕継位の正当性と賈逵の智謀を際立たせるために行った文学的創作であり、勇猛ながらも最終的には大局を顧みる曹彰の人物像を側面から描いている。
主要な関係
* 曹操(kin_of):父子関係。曹操は曹彰の軍事的才能を賞賛すると同時に懸念も抱き、書を読むよう勧めたが、最終的にはなお「黄鬚児はまことに大したものだ」と称した c:2145。『演義』では、曹操はその勇猛にさらに厚い期待を寄せ、「わが黄鬚児が来れば、劉備を破ることは必定だ」と語った c:2149。
* 武宣皇后卞氏(kin_of):母子関係。曹彰は卞氏の生んだ子である c:2147。
* 曹丕(sibling_of):兄弟関係。曹丕はかつて曹彰に、曹操の前で「自らを誇るな。常に足らざる者のように振る舞え」と諫めた c:2145。『演義』では、曹丕は曹彰の到来に警戒を示し、王位を争うことを心配したが、最終的に曹彰は臣服を表した c:11267(演義独自)。
* 曹魏(そうぎ)(member_of):曹彰は曹魏の宗室の一員であり、鄢陵侯・任城王に封じられ、曹魏のために赫々たる戦功を立てた c:5560。
* 田豫(colleague_of):烏丸征伐の際、曹彰は田豫の計策を採用し、要害を固守して敵軍の撃退に成功した c:2145。
* 軻比能(opponent_of/subordinate_of):鮮卑の大人軻比能は、曹彰と烏丸の戦いを傍観していたが、その勇猛を見て部を率いて帰順した c:2145。
象徴的な場面
* 慷慨たる志、将となることを好む:曹彰は少年の頃から人並み外れた膂力と射御の術を示し、志意は慷慨で、儒学を慕わず、衛青・霍去病のような将軍となることを志した。曹操が志を問うたとき、彼は明確に「将となることを好む」と表し、「堅き鎧を被り鋭き武器を執り、難に臨んで顧みず、士卒に先んじる。賞は必ず行い、罰は必ず信あらしめる」という為将の道を述べ、曹操を大いに笑わせ称賛させた c:5560。
* 烏丸を北征し、敵軍を大破する:建安二十三年、曹彰は軍を率いて代郡の烏丸を北征し、兵力で劣勢のなか田豫の計を採用し、続いて自ら士卒に先んじて手ずから戦い、胡騎を大破し、斬首と捕虜あわせて数千を得て、鮮卑の大人軻比能を帰順させ、北方を平定した c:2145。この戦役は曹彰の卓越した軍事指揮能力と個人の武勇を十分に示している。
* 「黄鬚児はまことに大したものだ」:曹彰が北征から帰ると、曹操は長安で彼を召見した。曹彰が曹丕の言に従い功を諸将に帰したため、曹操は大いに喜び、その鬚を撫でて「黄鬚児はまことに大したものだ」と称賛した c:2145。この言葉は曹彰の象徴的な呼称となり、曹操の彼への愛情と肯定をも表している。
* 斜谷の囲みを解き、吳蘭を陣中に斬る:『三国演義』では、曹彰は軍を率いて漢中(かんちゅう)の斜谷に間に合うように駆けつけ、劉備軍に包囲された曹操を救った。彼は劉封と交戦して三合で劉封を破り、後にまた乱戦の中で「一戟で吳蘭を馬下に刺し殺し」、その超人的な武力と父を救う孝勇を示した c:2149(演義独自)。
* 賈逵に屈服し、曹丕に帰順する:曹操の死後、曹彰は大軍を率いて弔問に駆けつけ、曹丕の疑念を引き起こした。賈逵は曹彰に会い、「家に長子あり、国に儲君あり」という言葉で曹彰を説き伏せ、位を争う念を捨てさせ、兵権を曹丕に引き渡させた。これは曹彰が最終的に大局を顧みる品格を示している c:11267(演義独自)。
人間関係
9 件の関係
名言
全 5 件の台詞 · 厳選 3 件
「大丈夫當學衛青、霍去病,立功沙漠,長驅數十萬眾,縱橫天下;何能作博士耶?」
この言葉は、曹彰(そうしょう)の志を示し、その武将としての姿を描き出し、広く伝えられている。
「好為將。」
簡潔で力強く、曹彰(そうしょう)が生涯追い求めたものを言い表しており、その核心的特質である。
「先王璽綬安在?」
この問いは、曹彰(そうしょう)の皇権に対する敏感さを体現し、その政治的野心を暗示している。
登場回9 回 ▸
- 史ch.2ch.15ch.19ch.20ch.26ch.30
- 演ch.72ch.78ch.79
関係の年表7 条 ▸
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は曹彰(そうしょう)、字は子文である。父の王、武皇帝と武宣皇后卞氏(べん こうごう)の子として生まれた。今、この最後の時にあって、心にかかるのは、やはり父と国である。兄弟の名分を思えば、私は文皇帝、陳思王植(ちんしおうしょく)と同じ母から
- 私は曹彰(そうしょう)、字は子文である。今、北征を思い返して真っ先に浮かぶのは、父王が後に髭を撫でながら私を「黄鬚児」と呼んだことではなく、出陣の際に戒められたあの言葉だ。「家にあっては父子、任を受ければ君臣。行動は常に王法に従え。」父の命
- 幼い頃を思い返すと、私は弓術や馬術に長け、腕力も人並み外れていた。素手で猛獣に立ち向かい、険しい場所に出くわしても退こうとはしなかった。当時の私は、世の男たるもの、弓馬をもって務めを果たし、戦場を駆け巡ってこそ、胸に秘めた力を無駄にせずに済
生涯の大事2 ▸
- 0218-01-01 · 桑乾河(そうかんが)曹彰、代郡の烏桓を北征する(そうしょう、だいぐんのうかんをほくせいする)· 総大将
- 0220-01-01 · 洛陽(らくよう)太祖崩御、賈逵が喪事を統括(たいそほうぎょ、かくいがそうじをとうかつ)· 武将