背景
蜀漢(しょくかん)の景耀末年の国力は、丞相諸葛亮(しょかつりょう) の時代とはすでに遠く及ばなかった。姜維(きょうい)が沓中(とうち ゅう)に長期屯田して成都(せいと)を避けていたのは、宦官の黄皓 (こうこう)が内で権を弄び、右大将軍の閻宇がこれと結託したため、 姜維が自ら危ういと感じて入朝しなくなったからである。こ の「主帥が都に戻ろうとしない」という状況は、それ自体が政権末期の 典型的な病態であった。姜維が鍾会(しょうかい)の関中での兵の動きを 察知して阳安関と陰平郡(いんぺいぐん)橋頭への増援を求める上表を 行ったが、その上奏文は棚上げにされ、蜀漢中央の意思決定機能はこの 時すでに麻痺寸前であった。
主要人物
姜維は大将軍として、この段階における蜀漢軍事意志の実質的な担い手 であった。北方の危機への判断は成都の中枢よりも鋭く、野戦での決勝 を望む意欲も強かった。廖化(りょうか)・張翼(ちょうよく)・董厥 (とう けつ)は蜀漢の中堅一世代の老臣として、姜維との協力と意見の 相違が混在し、三人は姜維の頻繁な北伐への不満を幾度も表明していた。 対する鍾会は、司馬昭(しばしょう)が期待をかける少壮の統帥として、 野心に満ち志高く、蜀討伐は国家の任務であると同時に個人の出世の踏 台でもあった。背後にはもう一つの陰の存在もある——排斥されながらも 姜維に対して常に足を引っ張り続けた成都の宦官集団であり、前線への 権限削減が間接的に魏軍の奇襲を後押しした。
核心議題
剣閣(けんかく)への退守という決断点は、姜維が二択の中から最も害 の少ない方案をいかに選ぶかという問題であった。沓中はあまりに西よ りで成都から遠く、魏軍が漢中(かんちゅう)に突入すれば退路が断た れる。阳安関はすでに陥落しており、漢中盆地で鍾会と決戦することは 蜀漢の残兵をもって十数万の魏軍主力と正面衝突することを意味し、勝 算は極めて低かった。剣閣への退守の論理は極めて明快であった。剣門 は一夫が関を守れば万夫が通れぬ要衝であり、巴蜀北方の最も経済的な 防御拠点である。姜維はおよそ四万から五万の兵でこれを守ることで、 数か月のうちに鍾会の補給線を疲弊させ、季節の変化か魏軍内部の変動 を待つことができる。この発想は戦術的に正しかった——実際、鍾会の主 力は剣閣の前で滞留し、補給の逼迫から撤退を考慮するに至っていた。 問題は姜維の判断にあったのではなく、鄧艾(とうがい)が毛氈に身を 包んで崖を転がり落ちるという自殺同然の方法で剣閣を迂回するとは予 測できなかった点にあった。
政治的帰結
戦役の次元からは、剣閣への退守は鍾会の主力を直接遮断し、姜維個人 の戦術能力の最後の発揮の場であった。戦略の次元からは、蜀漢の命運 すべてを「剣閣が破られない」という一点に賭けることになった——鄧艾 が剣閣を迂回して江油・綿竹(めんちく)・成都の腹地に直入すれば、 蜀漢にはもはや動かせる予備兵団が存在しなかった。すべての可動な機 動兵力が剣門一線に集中されていたからである。この「すべてを一点に 賭ける」配置は、政権末期における資源の極度の欠乏下での受動的な選 択であり、能動的な戦略ではなかった。剣閣の阻止成功と鄧艾の奇路突 破の成功は、263年の蜀滅亡の戦役において、劇的なコントラストをなす 一対の鏡像をなしている——前者は局部を制したが全局を失い、後者はす べてを賭けて国家を得た。
反実仮想
もし蜀漢中央が景耀五年に姜維の「阳安関・陰平郡橋頭への増兵」の建 議を採用していれば、鍾会の主力はおそらく漢中盆地に入る ことすらできず、陰平の山道も守兵が配されて完全に機能しなくなり、 蜀漢がさらに十年生き延びることも難しくはなかった。逆に、もし姜維 が剣閣に退守せず漢中や綿竹の一線で鍾会・鄧艾とそれぞれ野戦を試み ていれば、滅亡はより速かったであろう。剣閣退守の真の悲劇は、戦術 的な誤りにあるのではなく、有能な統帥が、すでに自己修復を放棄した 政権の枠組みの中で選択を迫られていたという点にある——どう選んでも、 それは崩壊を遅らせることであって、阻止することではなかった。
