戦略的背景
袁紹(えんしょう)が官渡(かんと)で敗北して病死した後、曹操(そうそう)は河北の消化におよそ五年を費やした。鄴(ぎょう)の陥落・冀州(きしゅう)の帰服から、南皮(なんぴ)で青州(せいしゅう)を取り易京(えきけい)で幽州(ゆうしゅう)を破り、最後に烏桓遠征の前夜まで、并州は常にこの掃討の連鎖で完全に閉じられていない一環だった。并州刺史の高幹(こうかん)は袁紹の甥であり、名目上はすでに曹操に降っていたが、曹軍の主力が北方に調動されると彼は背後で翻覆し、曹操が中原の腹地を放棄して塞外への遠征を安心して行えない状況をもたらした。壺口關は太行の陉の西端に位置し、并州から冀州へ東出する要道を扼しており、この門が敵の手にある限り、曹操が遼西深く入ったとしても帰路を遮断される恐れを拭えなかった。
双方の布陣
演義の記述によれば、曹操はまず楽進(がくしん)・李典(りてん)と張燕(ちょうえん)の并州軍を遣わして高幹を合攻させたが、壺口關の地勢は険要で攻めにくく、三将は関を落とすことができなかった。曹操はやむなく自ら中軍を率いて北上して督戦し、第一線の指揮権を取り戻した。高幹側は関に拠って固守し、主動的には出戦しなかった。曹軍を消耗戦に引き込み、外援(南匈奴あるいは残余の袁氏勢力)の出現を待つ意図だった。曹操が衆将を集めて議事したとき、謀士の荀攸(じゅん ゆう)が策を献じた。「幹を破るには、詐降の計を用いるしかない」――硬攻のコストが高すぎるため、関内の防衛線を自ら崩させる以外にないと判断したのだ。
決断の分岐点
この役は演義において長篇の戦記として展開されてはいないが、その決断の節点は明確だ。第一に、曹操は前線の将領に引き続き消耗させるのではなく自ら親征を選んだ。これは彼が并州を長引かせてはならず、翌年の烏桓遠征のために後方を必ず空けなければならないと判断したことを意味する。第二に、彼は荀攸の詐降計を受け入れ、兵を積み重ねて硬攻することをしなかった。これは曹軍が前期の関攻で大きな損害を受けており、傷を重ねて時間を買う余裕がなかったことを示す。第三に、まず周辺の烏桓触(うかんしょく)を撃破して周囲の勢力を安定させ、その後兵力を集中して関を攻める。これは曹操が河北の諸戦において常用していた「まず両翼を剪り、次いで主城を取る」リズムだ。
結果と反響
壺口關が攻略された後、高幹は南匈奴への援軍要請が叶わず、逃走の途上で捕縛されて処刑され、并州全体が正式に曹操の統治に組み入れられた。戦役そのものの規模は官渡や赤壁(せきへき)には及ばないが、戦略の連鎖上での位置は決定的だった。并州を平定し太行の陉の脅威を解除しなければ、曹操は翌年(207年)に安心して柳城(りゅうじょう)に遠征し、烏桓と袁尚(えんしょう)・袁煕(えんき)の問題を徹底的に解決することはできなかった。換言すれば、壺口關の戦いは河北掃討の最後のピースであり、後に曹操が荊州(けいしゅう)に南下し孫権(そん けん)・劉備(りゅうび)と対峙する北方安定の戦略的大後方を作り出した。
反事実推演
壺口關が長く落とせないまま続いたとすれば、曹操は烏桓への北征が不可能となっていたはずだ。袁尚・袁煕が烏桓騎兵を借りて反撃し、高幹が并州で牽制するという状況になれば、河北の情勢は再び揺らいでいた。曹操がやむなく并州に長期屯兵すれば、南方の劉表・孫権も少なくとも一年の息継ぎを得て、後の赤壁の対峙が前倒しで出現し、且つ双方の勢力比がより拮抗したものになっていたであろう。逆に言えば、高幹が反乱を起こさなかったか、あるいは反乱がすぐに鎮圧されていたなら、曹操の河北統合のリズムはより緊密になり、赤壁の戦い(せきへきのたたかい)は建安十三年まで遅れなかった可能性が高い。つまりこの一見目立たない関隘の攻防が、実際には三国(さんごく)格局が形成されるタイムラインを左右していたのだ。
