史書の記載(Historical Record)
張猛は、字を叔威といい、本籍は敦煌(とんこう)で、その父張奐は桓帝の時期にかつて郡守、中郎将、太常などの職を務め、後に華陰に定住した。建安の初年、張猛は郡中で功曹を務めていた。当時、河西四郡は涼州(りょうしゅう)の治所から遠く、また河寇に阻まれていたため、上書して別に州治を設けるよう請うた。朝廷はそこで陳留(ちんりゅう)の人邯鄲商を雍州刺史に任じ、四郡の事務を専管させた。同時に、張猛の父張奐がかつて河西で威名を馳せていたため、朝廷は張猛を武威太守に任じた。
邯鄲商と張猛は同い年で、二人は赴任前からしばしば互いに戯れ合っていた。しかし、共に赴任する途中で、二人の関係は悪化し、互いに非難し合った。任地に到着すると、邯鄲商は張猛を誅殺しようとした。張猛はこれを察知すると、ただちに兵馬を集めて邯鄲商を攻めた。邯鄲商の官舎は張猛の住居と隣接しており、兵馬の音を聞くと、驚き恐れて屋根によじ登り、張猛の字を呼んで「叔威よ、お前は私を殺そうというのか。もし私が死ねば、たとえ知あらば、お前は一族を滅ぼされるであろう。われら和解しては、いけないのか」と叫んだ。張猛はそこで彼に降りてくるよう呼びかけた。邯鄲商は屋根から飛び降り、張猛の前に来た。張猛は彼を一通り叱責した後、督郵に引き渡した。督郵は邯鄲商を伝舎に拘禁した。後に、邯鄲商は逃亡を試みたが、ことが露見し、張猛に殺された。この件は建安十四年に起こった。
建安十五年、将軍の韓遂(かんすい)が兵を率いて張猛を討伐しに来た。張猛は兵を派遣して東で防がせた。しかし、その配下の吏民は韓遂を畏れ、転じて共に張猛を攻めた。張猛の父張奐はかつて武威太守を務めたが、当時張猛はまだその母の胎内にあった。その母はかつて張奐の印綬を佩び、楼に登って歌う夢を見た。張奐が夢占いの者に尋ねると、夢占いの者は「夫人は将に一子を生まん、後日また当に此の郡に重ねて臨むべし、其れ必ず官職に死せん」と言った。張猛が囲み攻められるに及び、自らの死を覚悟して嘆じて言った、「もし死者に知なくばそれまでだが、もし知あらば、どうしてわが頭を東に向けて華陰を経させ、わが先君の墓地を過ぎさせることなどできようか」と。言い終えると、張猛は楼に登って焼身して死んだ。
演義での描写(In the Novel)
(演義の材料なし)
主要な関係
* 邯鄲商(enemy_of):邯鄲商と張猛は同い年で、当初は関係も悪くなかったが、共に赴任する途中で隙を生じた。邯鄲商は張猛を誅殺しようとしたが、逆に張猛に殺された。
* 龐淯(ほういく)(admirer_of):龐淯は張猛が邯鄲商を殺害した後、張猛の禁令を顧みず、邯鄲商の喪所に赴いて哭し、張猛を刺殺しようとした。張猛はその忠義に感じ入り、危害を加えず、かえって通行を許したため、龐淯はこのことで忠烈をもって知られるようになった。
* 韓遂(enemy_of):韓遂は建安十五年に軍を率いて張猛を討伐し、最終的に張猛の配下が反乱を起こし、張猛は焼身して死んだ。
象徴的な場面
* 邯鄲商を誅殺する:張猛と邯鄲商は赴任の途中で関係が悪化し、邯鄲商が張猛を殺そうとしたため、張猛は機先を制して兵を率いて邯鄲商を攻めた。邯鄲商は驚き恐れて屋根によじ登り命乞いをしたが、最終的に張猛に殺された。この出来事は直接、張猛と朝廷の対立をもたらした。
* 龐淯の通行を許す:張猛は邯鄲商を殺害した後、「あえて商の喪に臨む者あらば、死して赦さず」と命じた。しかし、龐淯は禁令を顧みず、邯鄲商の喪所に赴いて号哭し、身に匕首を隠して張猛を刺殺しようとした。張猛はこれを知ると、龐淯の忠義を嘆じて危害を加えず、かえって彼を立ち去らせたため、龐淯はこのことで天下に名を馳せた。
* 楼に登って焼身:韓遂の討伐の下、張猛の配下が反乱を起こした。張猛は自らの死を覚悟し、死後に頭を東に向けて先君の墓地を過ぎることを望まず、楼に登って焼身した。この場面は、絶体絶命の境地における張猛の決然たる態度と、一族の名誉への重視を示している。
人間関係
1 件の関係
敵対1
台詞
- 史 ch.18 §60
「敢有臨商喪,死不赦。」
登場回1 回 ▸
- 史ch.18
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は張猛、字は叔威で、もとは敦煌(とんこう)の人である。昔、建安初年、郡では私を功曹に任じた。河西四郡は涼州(りょうしゅう)の治所から遠く離れ、さらに河賊に隔てられていたため、上書して別に州を置くよう願い出た。朝廷は邯鄲商(Kantan S